Date2002-07-03

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introverted diary というサイトの日記で、当サイトをデザインの参考になるサイトということで挙げていただいているのですが、その少し前の文で多段レイアウトについて書いてあり、また、深黒電脳網The Web Standards Project が挙げられていることからして、そのデザインとはつまり「多段レイアウト」のことなのではないかと推測しますが、すみません、うちは参考になりませんですぅ。メニュー・リストを左に配置しようと試みるも、ブラウザごとのちょっとしたズレにいちいち対応するのが面倒になって結局いまのデザインに日和ったヘタレなんです…。

ですから、やっぱり例にあげられていた深黒電脳網を参考にされるのがいいのではないでしょうか、とリンクをたどってウチに来られるかもしれない方に前もっていいわけをば。

silence

gobbledygook/debris+diary 経由で読んだ “Big noises at odds over the sound of silence” という記事がとっても面白かった。なんでも、Mike Batt というミュージシャンが自分のアルバムに 60 秒間の無音状態を挿入し、冗談で Batt/Cage とクレジットしたところ、John Cage の代理人から「著作権の侵害だ、ゴルァ」という手紙を受け取ったと。それに対する Batt さんのいいわけがふるってたね。

But my silence is original silence, not a quotation from his silence.

Big noises at odds over the sound of silence より

清々しさすら感じられる名セリフだと思いました。

とはいえ、例の <4’33″> という曲の肝要は silence というよりもむしろ、その time に、あたりのざわめきを聴き取ることにあったのではなかったか。それがいかなる音であれ、音と耳との遭遇=聴取が成立しさえすればそれは音楽になるのだ、と John Cage のプログラムを解説し、あらゆる音が音楽に回収されてしまうことを批判する言説を紹介した後に、佐々木敦はこう書いている。

確かに、ケージのプログラムによって、「音」は「音楽」に収奪されてゆく。それはあたかもウィルスのように、一度動き出したら二度と止まることなく、「音」という「音」を冒していく。しかし、その極限において、本当に「音楽」が「音」と完全に重なり合ってしまったとしたら、もはやその時、「音楽」というものも存在しないことになってしまうのではないか。(?中略?)ケージのプログラムは、究極的には「音楽」を消滅させるプログラムでもあるのだ。

『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社・刊 , 2001)p.14 より

とすれば、Batt さんの silence が Cage さんの silence の引用でないことは火を見るよりも明らかですね。よかったね。

映画って本当にいいですね!

いやほんと、正直いって参りました。なめてました、すみません。やっぱり、岩井俊二はすごいですよ。”UNDO” だか “PICNIC” だかの時点で、もうこのひとの映画を観る必要はないなぁ、と思った(だから「スワロゥ・テイル」は観ませんでした)けれど、「リリイ・シュシュのすべて」をいまさら観て考えを改めました。彼が、全身全霊を込めて他人に対する悪意だけで一本の映画を撮り得る稀有な人材であると今作で思い知らされたのでした。

「面白い」とか「楽しい」とか「考えさせられる」といったプラス面の感情を呼び起こさせる作品なんてのは世の中にはいくらでも満ち溢れていて、それはそれですばらしいことだと思いますし、実際、好んでそのような作品を消費しまくる生活を送っているわけです。以前にも少し書いたことですが、プラス/マイナスを問わず、心の振り幅の大きさのみを基準として価値判断をおこなって生きてきた身としては、しかし、「リリィ・シュシュのすべて」という、虚仮脅しと、紋切り型と、気持ちの悪い歌と、頭の悪い俳優と、投げ出されっぱなしのディテールと、どこかで聞いたようなお話だけで構成されたこの映画に強く心を惹かれたことを否定することはできないのです。実際、すでに意味不明なことになっているこの文章を書いている時点でやられちゃっていることがよくわかりますね。

上述した通り、この映画は、僕にとってはすべて否定すべき要素だけで構築されているように思えるのですが(かわいい女の子が何人かいたことだけがプラス点)、そのようなものを寄せ集めて「どうよ?すげぇだろ?」とふんぞり返っている、こんな映画を撮るひとがどんな人間なのか想像もつきません。いかに凄惨なレイプ・シーンがあろうと、女の子がいじめっこによって売春させられようとそんなことはどうでもいいことなのです。とはいえ「フィクションに過ぎないから」などという幼稚なことをいいたいわけではありません。映画が残酷なものであり得るのは、虚仮脅しによってではなく、否応もなく「世界」が映し出されてしまうからではなかったか。あり得ない場所、聴こえ得ない音、映画が映し出すその「世界」は僕らがよく知っているつもりのこの世界を根本からひっくり返してしまう。

長くなってしまったのでまとめをちゃちゃっと書いちゃうと、絶望を描こうとするその情熱それ自体が絶望を表象してしまうこと、虚仮脅しと紋切り型でしか作品を作り上げることができないこと、そんな馬鹿げたことを全力で「どうよ?」と叫んでまわっている男が存在すること、そのさまを「他人に対する悪意」と解釈しないとさっぱり理解ができない僕の感性、そこには映画のひとかけら、ひとコマすら存在せず、いうまでもなく「現実」なんてものは端から見捨てられていて、ただただ絶望だけが広がっているなかでひたすらめまいを感じるばかりなのですが、それが「世界」なのかもしれないと思うと、そのめまいすら甘美というには激しすぎる快楽と感じられてほとんど吐き気を催すほどなのです。

© 2020 栗林健太郎

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