日記はScrapboxに移動しました。

silence

gobbledygook/debris+diary 経由で読んだ “Big noises at odds over the sound of silence” という記事がとっても面白かった。なんでも、Mike Batt というミュージシャンが自分のアルバムに 60 秒間の無音状態を挿入し、冗談で Batt/Cage とクレジットしたところ、John Cage の代理人から「著作権の侵害だ、ゴルァ」という手紙を受け取ったと。それに対する Batt さんのいいわけがふるってたね。

But my silence is original silence, not a quotation from his silence.

Big noises at odds over the sound of silence より

清々しさすら感じられる名セリフだと思いました。

とはいえ、例の <4’33″> という曲の肝要は silence というよりもむしろ、その time に、あたりのざわめきを聴き取ることにあったのではなかったか。それがいかなる音であれ、音と耳との遭遇=聴取が成立しさえすればそれは音楽になるのだ、と John Cage のプログラムを解説し、あらゆる音が音楽に回収されてしまうことを批判する言説を紹介した後に、佐々木敦はこう書いている。

確かに、ケージのプログラムによって、「音」は「音楽」に収奪されてゆく。それはあたかもウィルスのように、一度動き出したら二度と止まることなく、「音」という「音」を冒していく。しかし、その極限において、本当に「音楽」が「音」と完全に重なり合ってしまったとしたら、もはやその時、「音楽」というものも存在しないことになってしまうのではないか。(?中略?)ケージのプログラムは、究極的には「音楽」を消滅させるプログラムでもあるのだ。

『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社・刊 , 2001)p.14 より

とすれば、Batt さんの silence が Cage さんの silence の引用でないことは火を見るよりも明らかですね。よかったね。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *