一億三千万人のための 小説教室』(高橋源一郎岩波新書)を読みました。僕はもう高橋源一郎の小説を面白いと思っては読めないし、この本についても特に思うところはありませんが、ひとつだけ気になった箇所を引用します。

飛んで来る、たくさんのボール(引用者註:小説)の中に、あなたの恋人を見つけてください。好きにならずにいられないものを見つけてください。

それから、それをまねして、ください。

何度も、何度も、読んでください。読んで、読んで、それから、書き写してください。

繰り返し、繰り返し、書き写したら、その次は、その文章で、それを書いたひとの視線で、世界を見てください。それを書いたひとの感覚で世界を歩き、触ってください。

もし、それが、あなたにとって必要なものであるなら、その、他人のものである感覚や、視線も、少しずつ自分の中に吸収され、自分の感覚や視線と混じり合い、新しい感覚や視線に変化していくでしょう。

『一億三千万人のための 小説教室』(高橋源一郎・岩波新書 p.125-126) より

著者は、小説を書くことと人生を生きることとには通じるものがあるといっているので、上記引用を小説教室の先生の言葉としてというよりもむしろ生き方の指針のようなものとして受け取ることも可能でしょう。というか、僕が常日頃考えているのもそういうことなのです。

小説を読むことは、自分ではない誰かの人生を生きることであるし、小説を読むことに限らず、社会の中で生きることはいつだって誰かの人生を生きることなのだと思います。僕は僕の人生なんてどうでもいい。誰かの、自分を含めたあらゆるひとの人生を生きたいと思うし、そのために本を読んだり、いまは Web 上でひとの日記を読んだり自分の日記を書いたりしているのです。僕はあなた方の生き様を知りたい。

とはいえ、それはいわゆる「自分探し」とも違っていて(同じかも知れませんが)、というのは、覚悟の決め方が違うということです。僕は癒しなどというみすぼらしさを拒否するし、いつか自分がかつての自分と違ってしまうとしてもそうなってしまったときにはそのことに気付くことはないのだからそんなことはどうでもいいのです。ただ、視線や感覚の変化こそが、目眩くあざやかな彩りの奔流こそが僕の求めるものなのです。

という意味では、僕は平然としてあるいは誇らしげにひとのふるまいをパクるし、そのことを批判されたとしてもその頃にはすでに桃源郷をたゆたっているのであれば、聞く耳を持たないというか聞き且つそれをも楽しんでしまうでしょう。

…というふうに生きていければ幸せだなぁと思った。