BBS でのふにさんの発言 へのリプライとして。

LONELY WOMAN

1982 年、生死の境をさまよったのちの高柳昌行が録音した “LONELY WOMAN” を聴きました。阿部薫と共演した「解体的交感」「集団投射」「漸次投射」といった分厚い音壁をぶん投げてくるような作品群や、晩年の「カダフィのテーマ」のようにあらん限りの繊細さで以て音だけが構築し得る世界の美しさ(あれを美しいというかどうか知らないけれど)を描き出してみせた、そのような作品を聴いてやられ果て、数十年遅れて、しかしこれ以上ないほどアクチュアルな音楽としていま高柳の音楽を聴きつつある身としては、代表作として名前だけは知っていたこのアルバムを期待に打ち震え、身構えて聴くに及んだわけですが、そこに聞こえるのは静かな、あるいは生硬ですらある演奏であってみれば、これはもうどう反応すればいいのかわからなくなってしまったのでした。

ともあれ、慎重に慎重を期してひとつひとつ配される音をなぞっていく。音楽的な素養も教養もない僕にはいろんなことがわからなくて、そこでいま何が起こっているのかただただじっと耳を澄ませて感じ取ろうとするのだけれどもやっぱりわからないのです。多分これを美しいと呼ぶのではないかと思ってみたり、美しさというわけのわからない概念に逃げ込むことでなにかをわかった気になるのはやっぱり違うとまた耳を澄まして。ほとんど自分が演奏しているような気すらしはじめてしまうぐらい、何度でも聴く。寸断されたフレーズが限りなくリフレクトして、どこで音が鳴っているのかわからなくなってしまう。

というよりもむしろ、なにがなんだかさっぱりわけがわからないまま、呆然と立ちつくして考え抜かなければならない状態に立たされてしまう、そのことが僕にとっての快楽なのです。激しい絶望と、耐え難い昂揚。そしていまその場に立っている、どこまでもフラットで、救いのないユートピア。音楽が僕をこうまでも魅了するのはまさにそのせいではなかったか。いや、全てがそうでなければ、もう手遅れなのです