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ミニマリズム、あるいは世界が立ち現れる瞬間の記録

ボディ・アーティスト

ドン・デリーロの最新邦訳である『ボディ・アーティスト』を読みました。もうね、久方ぶりに本を読むというのにいきなり全力疾走してしまった感じで、傑作ぶりに唖然とするのみですよ。例によって(長い)引用。

立ったまま書類の整理をしているとき、あなたはテーブルから何かを落とす。ただ、そのことに気がつかない。一秒か二秒経ってようやくそのことに気づくが、それでも自己の身体のまわりを覆う空間の無形の歪みとしてしか理解できない。しかし、何かを落としたことに気づいてからようやく、あなたはそれが床に落ちる音を聞く。その音は様々な距離の巨大な網目を通して聞こえてくる。あなたは物が落ちる音を聞き、それが何であるかをほぼ同時に知る。それはクリップである。あなたはその物が床に落ちるときの音からそのことを知る。その物の落下自体の記憶がよみがえってくる?その物が手から落ちたり、それが留めていた紙の縁から滑り落ちたりしたときの記憶。クリップは紙の縁から滑り落ちた。物を落としたことに気づいたので、あなたはようやくそれがいかに起きたのかを思い出す。あるいは、ぼんやりと思い出したり、おそらくは眼前にその光景が浮かんだりする。クリップは床に落ち、ひっくり返るようにはねる。軽やかに、重みを感じさせず、その音を表す擬声語はない。クリップが落ちる音。が、あなたがそれを拾おうとすると、そこにクリップはない。

『ボディ・アーティスト』(ドン・デリーロ・著、上岡伸雄・訳、新潮社・刊) p.108 より

上に引用したのは第六章冒頭の一段落なのですが、この箇所だけでも強烈な迫真を伴って世界が立ち現れるのをあるいは感じ取れるかもしれず、というよりもむしろ、本当は全文を引用(っつーか転載)したいぐらい前編にわたる時間の流れ、言葉の微細なざわめき、混濁と明晰さの入り交じりぶりの凄まじさがすばらしくてね、やっぱりなんともいいようがないのです。

そういう作品であってみれば、ヌーヴォー・ロマンと呼ばれもした諸作を思い出したのはもちろんのこと、僕の現在的な関心からいえば、ピピピピピとかジジジジジとかいった音が延々鳴る音楽や、インターネット(つか、しつこいようだが wired)についての連想が強く働いて、そういう観点からいってもとても面白い小説でした。つか、いまヌーヴォー・ロマンを読んだら、多分ものすごく面白いだろうなぁ。本棚を漁ってみよう。

↑なにを一人で盛り上がってるのか、という感じの文章ですが、説明のしようがないというか。

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