講談社新書で刊行されている「悪の?」シリーズ第 3 作目の福田和也『悪の読書術』(講談社新書)を読了。ちなみに 1, 2 作は『悪の対話術』『悪の恋愛術』というもの(例によってブツがみつからない…)。
のっけから小熊英二『<民主>と<愛国>』を若者が読んでおもしろがってるのは教科書的、戦後思想史まるわかり的な一丁上がり感があるからだろうなんて、身も蓋もなさげ(僕はその本を読んでないのでわかんないけど)なことを書いててやる気満々。
とはいえ、この本はただ単に「これを読むべし。あれはダメ、うんこ!」とかいうようなブックガイドでは全然なくて、前 2 作に引き続いて「社交」と「スタイル」を主軸に据え、どういう態度で以て本というものに接すればいいかというお話。まぁなんというか、僕のような貧民には縁のないことだよなぁとかのっけから弱音を吐きたくなるわけですが。
社交云々についてはなんともいいようがないのでアレなのですが、以下に引用するファッションに対する趣味と本の趣味との対比についての指摘は面白いと思った、というかそういう局面にたびたび遭遇したものだ。
いや、別に、天国がどうした、というような本を読んでもいいし、好きだといっても構わないわけです。ただ、それが、他者から見てどういう意味に取られるか、ということについて意識したうえで、語るならばいいのです。でも、このあたり大変無頓着ですよね、皆さんは。一足の靴、一つのカバンを持つことが、どういう意味を持つのかという点については、非常に意識的であり、時に戦略的ですらある人が、本については全く意識がない。汚れた下着を平気で見せるようなことをしていて、何の痛痒も感じていない。別に、見せたいのなら、何を見せても良いのです。ただ、それと知らず、はみ出すように見えてしまうことが、恥ずかしいといっているのです。
[ 福田和也『悪の読書術』 p.226 より]
天国がどうした、というような本
を読んでることをひとまえで披露して恥じ入ることのないことを汚れた下着を平気で見せるようなこと
だとすることには異論もあろうけど、僕の顔が誰がなんといおうと好き嫌いといった主観を超えて不細工であることには異論がないのと同じ意味で、ダメな本を読んでることを恥じない精神をダメだとしたい、というのは極論ですが、ともあれ雑誌とかでタレントがゴミ本をお気に入りなんていってると、本を読むという趣味はひどくなめられているよなぁと思うことがあります。
まぁ、ひとさまに読んでることをなんらかの自意識なしには披露し得ないような本ばっかりのお買い物メモをわーるどわいどうぇっぶでぜんせかいにはっしんいんたーねっとわーくふゅーちゃりすてぃっくぐろーばるこみゅにけーしょんしてる僕がまずは反省しなければならないわけだが。