アニメ版「時をかける少女」を見た。まず、冒頭の数十分、たとえば主人公が坂道を自転車でだーっと駆け下るところとか、はいはいアニメアニメと思っていても、そのあり得ないがさつにイライラして、落ち着かない。ただまぁ、絵はきれいだし、ストーリだって、ストレートに恋愛ものにもってったのねと思いつつも、それなりによろしい。また、最近はオッサン化が致命的に進行したせいで、単にウェルメイドでしかない叙情にすら、まぁ乗っちゃえる、つまり、泣いちゃえるので、コウスケを助けようと走るところとか、チアキとの別れのシーンとか、普通に大泣きしてたんだけどw
だからこそ、ラストが本当に許せない。バカじゃねーの。なんで過去の人間にはタイムリープの存在を知らせちゃいけないというルールがあるのか。そんなの、人生が一回きりということこそが、この世界がいまこのようにあることの基底だからじゃねーか!だから脚本に、タイムリープで幸せになったひとがいる反面、不幸になったひとが必ずいるというエピソードを、カズコさんがセリフでそれとなく述べるに留まらず、しつこいぐらいに何度もなんども描き込んだんだろうが!
それなのに、そのルールはいつの間にかうやむやにされ、未来人はタイムリープの存在を簡単にバラしたくせに、マコトの記憶を消す(裏を返せば、マコトに対する愛情を断念する)ことで責任を取ることもなく、「未来で待ってる」などとそれっぽいだけのセリフを述べ散らかし、マコトが最後、「これからやることが決まった」的にポジティヴにしめくくるなんて、本当に罪深いことだ。ポジティヴな意志さえあれば、倫理も、ましてや世界すらも、無視し去っていいのか。それなんてサンマーク出版?原作は読んでないからしらないけど、大林宣彦版がああいう風に演出したのは、そういうことでしょ。ほんと、完璧に興覚め。非常に残念だ。
とりあえず、マコトが投身しようとしていると思いこんだ妹が「動機は?」と問い詰めるあたりや、その後、シャツの裾をつかんで歩いているあたりが萌え過ぎたので、もうなんだっていいよ!どうせアニメなんてそんなもんだろ。
4 comments
原作はパイムダラドクスとかに慎重でしたよ?まぁ面白くはなかったですけど
今回問題にされていた、「リセットに対する無頓着さ」が今時というか、ゲーム的なのではないですか?
そこで、今回言及されているところ(タイムリープは罪なのでは?)まで踏み込んで自己言及的に追い込んでいくと、ゲーム的リアリズムって文学的課題になるんだろうと思います。
リセットやタイムリープという設定自体は、東浩紀さんいうところの「ゲーム的リアリズム」という観点から、大変面白い問題であると思っています(『All You Need is Kill』の解説等、非常に面白く読みました)。ただ、アニメ版「時かけ」の場合は、おっしゃる通り今時の「ゲーム的」無頓着さなのでしょうけど、単にそれだけなら、その設定によって問われるはずの倫理的な問題(大林版、あるいは、『ゲーム的リアリズム』において考察されていたような問題)をまるで考慮することなく、ただただポジティヴな装いでごまかして終わる本作のような無頓着さは、端的に否定すべきものにしか思われないのです。
以下、上のコメントを書いてる時に思ったこと。独り言。
アニメ版「時かけ」を反セカイ系っていうひとがいるらしいけど、最後のポジティヴぶりがつまり「決断主義」ってやつなのかな。そりゃまたおめでたい「決断」だなぁ。まぁ「セカイ系/決断主義」とか言い出した文章自体を読んでないから、適当なことをいってるだけだが。
私もそのセカイ系と決断主義に関する評は読んでないのです。
しかし私はこの時かけを、antipopさんの様に深く考えてなかったです。それよりもタイムリープに関する矛盾とかそっちの方ばっかり気になってしまって、正直”一般人が見て単純に感動するもの”であると卑下が先にたってしまって思考停止していたみたいです。
これを機にセカイ系・決断主義も含めて少し考えてみようかと思います。では、お返事ありがとうございます。