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タイラー ハミルトン、ダニエル コイル『シークレット・レース』

先日、飲み会で自転車好きの同僚らと話していたら自分でも乗りたくなってきたので、放置していた自転車をオーバーホールに出して、週末に時間を取って少しづつ乗り始めたり、だんだん興が乗ってきて、自転車グッズをあれこれと購入したりしているところだ。その様子は、runtasticというiPhoneアプリを使って記録している。まだまだ思うように乗れなくてもどかしいのだが、高校生の時分以来、久々に体を動かすのは、けっこう楽しい。

そうなると、これまでとりたてて関心のなかった自転車レースにも興味を持ち始め、ちょうど今年はツール・ド・フランスの100周年記念ということもあって書籍などのリソースもたくさん出回り、入門にはいいタイミングだったのだろう(残念ながら、興味を抱くのがほんの少し遅くて、100周年記念のレースには間に合わなかった)。ブームに乗って刊行された本の中でも『ツール・ド・フランス (講談社現代新書)』は、バランスの取れた筆致で、ツール・ド・フランスの歴史からその魅力までをわかりやすく解き明かしていて、非常に面白かった。

その後、YouTubeで2013年のハイライトや、過去のレース、自転車関連動画を見漁ったりしていたところ、id:tagomorisさんが激賞していて気になったのがこの本、『シークレット・レース (小学館文庫)』。書店に寄った際に買い求めて読み始めたのだが、圧倒的に面白くて、夢中になってしまった。

シークレット・レース (小学館文庫)

シークレット・レース (小学館文庫)

本書は、ノンフィクション作家のダニエル・コイルが、元プロレーサーのタイラー・ハミルトンへのインタビューを、彼の1人称の語りとして構成したもの。500ページを超える、それなりに大部の書籍ではあるが、最高峰のレースを戦い抜いてきたハミルトンの語る自身と自転車レース界の物語、そして、本書のもうひとりの主人公である、前人未踏のツール・ド・フランス7連覇の記録を誇ったランス・アームストロングの強烈な個性についての様々なエピソードは、全編を通して圧倒的にテンションが高く、まったく飽きない。

ランス・アームストロングは、僕のように自転車レースにほとんど関心のなかったものですら知っており、今年(2013年)1月に自身のドーピング疑惑について事実と認めたことがニュースになったことも、ネットで見て知っているほどの、非常に有名、かつ、偉大な記録を打ちたてた選手だ。本書は、その告白の半年前に刊行され、おそらくはアームストロングが告白に至る過程に大きな影響をもたらしただろう、非常な転機を画した書籍である。

ドーピングときいて、自転車競技に限らずスポーツ全般においてイメージされるのは、とにかくズルい手を使って正々堂々のスポーツマンシップを汚す、あってはならない重大な背反行為であるという見方が普通だろう。そしてそれは実際にその通りなのだが、では、スポーツ選手たちがなぜドーピングをするに至るのかということについて、本当に彼/彼女らの心情に沿って、思いを巡らせたことがある者がどれだけいるかというと、こころもとない。僕自身、ドーピングについては通りいっぺんの感覚しか持っておらず、この本を読んで、スポーツにおけるドーピングの深みを知り、戦慄を覚えた。

ドーピング使用について告白するハミルトン自身も、最初から悪事に染まっていたわけではない。それは、アームストロングを始めとして、本書で告発される選手全員にとってそうだったのだろう。

最初からドーピングををしようと思っている選手はいない。僕たちは何より、サイクリングの純粋さを愛している。そこにあるのは、自分とバイク、道、レースだけだ。しかしロードレースの世界の内側に入った選手は、そこでドーピングが行われていることを察知する。そのとき僕たちがまず本能的に取ろうとする反応は、目を閉じ、耳を手で塞いで、ひたすら練習に打ち込むことだ。

(本書65ページ)

そのような「純粋」さは、やがて深い闇にとらわれていくことを避けることができない。本書ではそのような自転車レース界を「秘密結社」と呼ぶ。その内側では誰もがドーピングに手を染めていることを知ってはいるものの、外側に対しては断固として秘密を守る、閉鎖的な社会。

自転車競技では、その黎明期からドーピングが用いられてきた。20世紀前半、サイクリストは主として興奮剤(コカイン、エーテル、アンフェタミンなど)を使った。脳内に化学反応を起こし、疲労の感覚を低減させるためだ。1970年代、ステロイドやコルチコイドなどの新たな薬が登場した。筋肉や結合組織を強化し、回復時間を減らすことが主眼だ。しかし、真のブレークスルーは、血液を変化させることへの注目によって生じた。(中略)

EPO(スリスロポエチン)は本来、体内で自然に生成されるホルモンで、腎臓を刺激し、酸素を運搬する赤血球の生産を促す。80年代半ば、人工透析患者や癌患者向けの貧血治療薬として製剤化されたEPOは、たちまちアスリートによって利用されるようになった。(中略)EPOはピークのパワー出力を12〜15%向上させ、持久力(限界値の80%で走行できる時間)も80%高める。

(本書61ページ)

そのような薬剤が登場した結果、どうなったか。

1980年から1990年にかけて、ツール・ド・フランスの平均速度は時速37.5キロだった。1995年から2005年にかけての平均速度は、時速41.6キロ。空気抵抗を考慮すれば、これはパワーが全体的に22%増加したことを意味する。

(本書64ページ)

そのような状況下でレースに勝つには、EPO以降にも次々に現れる「技術革新」を取り入れていかなければ勝つことはできない。

いいタイミングだから、ここで重要な問題への答えを述べておきたい。その問いとは、「この時代、ドーピングを使わずにプロの自転車レースで勝つのは可能だったのか?」「クリーンな選手は、エドガー(引用者註・著者らが用いたEPOの隠語)を使う選手と戦えたのか?」だ。

その答えは「レースによる」だ。短距離のレースや、1週間のステージレースであれば、「イエス」と答えられる。(中略)

レースが1週間を超えると、クリーンな選手が勝つのは急に難しくなる。長丁場のレースではエドガーのメリットが急激に高まるからだ。レース期間が長引くほど、エドガーのメリットも大きくなる。つまり、ツール・ド・フランスではエドガーは絶大な力を発揮する。

(本書193ページ)

ツール・ド・フランスを始め、大レースにおいて勝つためには、一度踏み入れたら後戻りのできない道。誰もがドーピングを使用し勝利をおさめている以上は、いくら「クリーン」であろうとする理想を抱いていようとも、自分たちだけ使わないというわけにはいかない。ドーピングをしなければ、絶対に勝つことができないのだから。それはさながら「軍拡競争」のようであったと表現されている。

本書が面白いのは、さらにここからだ。先に述べたように、ドーピングはスポーツマンシップに反する、単純に卑怯な手段だと見做されている。ただ、本書の記述を読んでなお、そのような一方的な断罪を軽くくだせるかというと、それは難しいだろう。自転車レースは、ドーピングの使用を前提として、その上で限界までトレーニングを積み、体を絞りあげた結果行われるものに変質してしまっているからだ。たとえば次のような記述を読んだ後に、ドーピングをしている選手を単にインチキな手段でもって勝利をかすめとろうとする詐欺師よばわりをすることは難しいだろう。

本書に繰り返し述べられる激しい練習の模様はもとより、次のような記述は、読んでいるこちらまで身体に不穏な影響を感じてしまうほどだ。落車によって鎖骨を骨折したハミルトンは、なおも走り続ける。

僕は歯を食いしばり始めた。初めはただ反射的に行っていることに過ぎなかった。だが、思い切り歯を食いしばり、歯と歯を極限まですり合わせると、肩の痛みを忘れられた。奇妙な話ではあるが、歯を食いしばることで、不思議なくらい肩の痛みに耐えられた。大会後、歯の治療費を見てわかったことだが、僕はどうやらやりすぎてしまったらしい(11本の歯を差し替えなければならなかった)。

(本書308ページ)

身体に危険をもたらしかねないドーピングを日常的に使用した上に、激しい練習をこなした上で、なぜこうまでしてレースを戦うのか。それはほとんど狂人のような執念といわざるを得ないだろう。ランス・アームストロングは、その上さらに、勝つことに対する異常な執念を持っていた。

ともかくランスは、一生懸命に努力をした自分が、すべてのレースに勝つのは当然だと心から信じていた。(中略)ランスはほとんどあらゆることに耐えられた。だけど、負けるかもしれないという不安には耐えられなかった。

(本書265〜266ページ)

そのランス・アームストロングは、異常な猜疑心と、勝つためには手段を選ばない狡猾さ、ドーピングを行うことを勝つためには当然であると心底から思えるほどの勝ちへの拘泥を持った選手だった。自転車競技はチームスポーツである。エースを助けるチームプレイがあってこその、勝利がある。そうした、チームメイトの粉骨砕身にも関わらず、自分をおびやかすかもしれないという不安を少しでももたらす者に対して、アームストロングは容赦がなかった。それは長年の友人であっても同じ。著者も、自分をおびやかしかねない者として、アームストロングによってチームを追われたひとりだ。

ハミルトンは、実際に第一線を戦ったレーサーとして、アームストロングの内面を内在的に理解できる数少ない者のひとりとして、彼の感情や行動に対する同情を認めながらも、告発に至っていく。それは、ともすれば「沈黙の掟」(本書323ページ)を破る裏切り者の行為であるとして、逆に断罪されることもあり得る決死の行動であり、しかし、本人自身がかつてはどっぷりとその世界につかっていた者として、ただ一方的に自転車競技界を責めることができるわけでもないその苦しさは、スポーツとドーピングという、ともすれば単純な糾弾に陥りがちな話題に対して、深みをもたらしてくれる。

もちろん、ドーピング自体が容認し得ることでないのは確実であるとしても、本書を読んだ後で、ひとごとのようにに、単純にその非を責めることはできまい。自分がもしその立場だとしたら……そう思うと、ひとことではいいあらわしようのない感情がわきおこってくる。またしても、世界の深淵をさらに掘るような本に出会えたことに、感謝する気持ちでいっぱいである。ぶっちゃけ、自転車レースや自転車そのものになんの興味もなかったとしても、本書は、読んで確実に感銘を得られるだろうと思う。

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