落合陽一氏は未来に生きている。数年後というほど近くはないが100年後ほど遠くもない、現在からはそれぐらいの間隔のある時に居る。その未来からの視線が、たまたま我々が時間の先頭だと感じている今に焦点した視点に、ライカM10といくつかのオールドレンズというフィルタを通して現像された表象が集められたのが、2019年1月24日(木)から2月6日(水)まで開催されている写真展「質量への憧憬 〜前計算機自然のパースペクティブ〜」である。

本展は、落合氏の著作同様に、controversialであると同時に抗いがたい固有の魅力を持った内容となっている。近著の『日本再興戦略 (NewsPicks Book)』、『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』での東洋思想の導入ぶりや、あらゆる対象がコンピュテーショナルになる計算機自然(=デジタルネイチャー)、具体的には機械と人間の差すらも無化される、計算機ネットワーク上においてこそ華やぐ多様性の、しかしいまの我々から観るとほの暗いヴィジョンの、甘美さ。

鉄に触れている時に、これがピクセルの鉄だって一瞬でも思ってから触ったんだったら、それはもう既に純粋な鉄ではない。あくまでピクセルの鉄で、データとしての鉄と、フィジカルな鉄と、ピクセルの鉄というのが、脳内でもう識別不可能になっているから、「完全な記述はできないけど、鉄の何らかの表現型だと思って触ってる」みたいな。その脱構築的な感覚が日に日に強くなってくるんですよね。

(『脱近代宣言』p.36より)

落合氏の多数ある書籍においても例外的な、「奇書」と呼ぶべき『脱近代宣言』には、氏が既にほぼ脱近代(=本文書の冒頭に述べた「未来」)にいるということが読者にとっても明らかに理解できる発言が満載されている。上記に引用した発言などは、そのわかりやすい一例である。本展における氏は、そのような視座からの視線により、我々が生きる現在を、根こそぎ侘び寂び化してしまおうとしているかのようだ。しかし、なぜそんなことをしているのだろうか?

やるべきことは「人による近代」を終わらせる、ということです。つまり、新しい自然観の構築。一言でいえば、これが僕のライフテーマです。

(『脱近代宣言』p.60より)

上掲書ではこのように述べられていた氏のミッションは、氏の社会彫刻の実践として実行されていく。そして、本展に出品された作品群は、その過程で氏が見てきた風景なのだという。

僕の作品のキーテーマである映像と物質はその橋梁をになうメディアアート的な表現だ。そういった写真の中で、大切にしている価値観やベースになった記憶、それが接合したり外在性を得たりしながら出てきた表現、そして浮かび上がった表現を作っていく。その端々に散りばめられたのは、社会彫刻を作ろうとする僕が見てきた風景だ。

(会場内に掲示されたマニフェストより)

2018年2月10日(土)~24日(土)に開催された会田誠氏の「GROUND NO PLAN」展において、会田氏はヨーゼフ・ボイスについて、沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」の替え歌に乗せて「あんたの時代はよかった。芸術家がピカピカの詐欺師でいられた」と表現したが、その1年後の本展においては、落合陽一氏によって「社会彫刻」がマジなミッションとして回帰する。その良し悪しについてわたくしは意見を持たないが、いずれに対しても、ある一定の距離を置きながらも、共感を覚えるのは確かだ。

現に表象された作品群に観られる美意識そのものだけを評価するならば、本展はいわゆる廃墟趣味の展開というべきなのかもしれない(実際、そのような趣味を同じくする者にとっては垂涎ものではあると見える)。しかし、「我々が生きる現在を、根こそぎ侘び寂び化してしまおうと」する行為そのものが、現在をしか生きられない、落合氏ならぬ我々の眼を根底から変えてしまおうという、それこそ社会彫刻の実践そのものであると考えれば、本展への評価はまた違ったものにならざるを得ないだろう。