93.4kg(前日比+0.1kg、開始時より-0.2kg)。

新しい着想に関して図解を描いたりして、説明したり。単発で終わるのももったいないので、メモとして文書化して蓄積するようにしようと思っているところ。単にいうだけだと定着しないから、絵にしたり文書にしたり、折に触れてあらためて出してみたり、繰り返すことで少しずつ浸透を図っていく。

仕事を終えた後、『アリ語で寝言を言いました』を少し読む。極めて面白い。アリについて何も知らなかった。こんなことってあるの?という内容が次から次へと語られて驚く。タイトルにもなっている「アリ語」の話については、まだ論文刊行前ということで詳しくは明かされないのだが、さわりだけでも面白い。論文が出たら、解説を読みたいなあ。それにしても、生物の多様性にはあらためて驚かされる。人間なんてそれに比べれば一様な感じもする。

夕食を食べながら、「クローズアップ現代」で昨年に亡くなった瀧本哲史さんの特集をやっているのを観る。30分ということもありあまり深い内容のものではなかったが、彼のいっていた、ひとの人生ではなく、自分の頭で考えて自分の人生を生きろみたいなのは、ほんとそうありたいと強く思う。自分も、うっかりするとついつい他人の価値観で物事を考えてしまうこともよくある。

とはいえ、その文字面から想像されるような、自分の好みや嗜好だけを特別視するというのはまったく違うことだと思う(し、瀧本さんだってそういうことをいってるわけじゃないだろう)。つまり、単にだらしなく自分の傾向に流されるみたいなのは、それこそ他人の価値観で生きるということに他ならないだろう。意志を強く持って常に学ばないならば、生身の自分なんて他人の価値観の無自覚な集積に過ぎない。だからこそ、歴史に基づいて自分の生き方を確立するというのが、本当の意味での自分として生きるということだと思っている。

日本橋高島屋でかなり気合の入った民藝展をやるようで、Kが行こうというので週末に身に行くことにした。『アウト・オブ・民藝』の著者らによる展示もあるということで、買ったままおいてあったその本を準備のために読み始める。また、民藝といえば、落合陽一さんがここ数年、民藝としてのメディアアートは可能かみたいな話を、ヴァナキュラーという言葉を用いてしているというところから、ざっと眺めただけだった「第16回芸術評論募集 【次席】ウールズィー・ジェレミー「インターネット民芸の盛衰史」」という論考を思い出し読み返したりした。

レフ・マノヴィッチを参照してインターネット上の活動における労働と余暇との区別の無化をいうならば、Instagramこそがそれにふさわしいだろう(『インスタグラムと現代視覚文化論』)。画像へのタグ付けによるデータの生産(=労働/余暇)はもとより、民藝的関心でいえば、Kinfolk的な写真のスタイルは、インターネットにおける民藝写真というにふさわしい。昨日からSNSを騒がしている万博ロゴによる盛り上がりのような大喜利もまた、そうしたもののひとつといえるのかもしれない。ただ、中心のある大喜利のようなものは、ミームとはまた異なるのかもしれないが、無銘の労働による美が現出することもあるかもしれない。

ただ、著者の見立てに違和感を感じるのは、柳の「法則」のいう「(三)続いて示される工藝の原理は、「美」と「多」との結合である」という契機が、ミームに基づく大喜利のようなものには欠けているという点だ。繰り返し同じようなものを無心に作り続けるという意味では、インスタの方がずっと近い。それだってプラットフォームの上で与えられた様式をなぞっているだけじゃないかという批判もあり得よう。しかし、インスタはともかくネット上での制作の実践においては、無銘の職人がただ作り続けるみたいな話はあふれている。ただ毎日ブログに日記を書くこと=未来の読者への投企もまた、用の美足り得るだろうとも思う。

そういったところから、イリイチ的なコンヴィヴィアリテの道具へと接続することもできよう。いま、人々の労働=余暇を支えている道具として、インターネットサービスは大きな一角を占めるのは間違いない。その道具もまたひとが作り出したものである。少しずつ形を変えながら、しかし、何かを生み出すための道具が常に様々な人々によって作られ続けることもまた、民藝的な事態なのかもしれない。