朝、いつの間にか目覚ましを止めてしまって起きられず。10時過ぎに起きて仕事を始める。今日は22時半までずっと面接やミーティングなど。
最近ネット上で、おかしな話が横行しているNFT関連の話に対して、技術的にカウンターを当てる動きを目にすることが多かった。一方で、ハイプ的な人たちが妄想を重ねているのに対するに、今度は技術者の疑念が強過ぎて、ややもすると技術決定論的になってしまいがちなのではないかと思うことも多い。そんなことを思いながらTwitterにあれこれ書いていたことをまとめておく(Zennとかに書いてもいいのかもしれないが、面倒なので日記に貼り付けてちょっと編集するぐらいに留めておく)。
新しい仕組みが出てきた時に、現行の仕組みで求めてないことまで厳しく要求して、結果的に古い仕組みを温存することになるというのはよくあることだろう。リスク回避を最優先すれば、合理的な行動ではあり得る。また、自分がどちらのことをよく知ってるかで選択が変わることもある。知見の多寡が、選択肢についてのリスク認識に大きく影響するため、当然ともいえる。つまり、新旧の仕組みの良さではなく、単に自分が知ってるか知らないかで選択してしまうということ。
さらには、現実の仕組みをデジタルに置き換えた時に、現実の仕組みを成立させている前提を客体化するのが難しいということもある。できるからといって、たとえば犯罪に該当することを、ひとはどの場所であっても(あまり)しない。それは、根本的には国家権力があるから。デジタルだってそう。テクノロジーを濫用するハイプに技術者として適切に対抗するには、技術そのものに向き合うのが一番で、技術者とはそれができる能力があるからバイアスをできるだけ意識化し、低減できる。一方で、技術だけで物事は決まらないのも当然で、社会的な成立根拠にもまた、同様の視線を向ける必要があろう。
リスク回避的な性向を持つのは当たり前のことで、それ自体は問題ではないが、リスク評価が自分の中でどのように行われるのかについては、技術者として自覚的でありたい。人間的なシステム1に対する、技術者としてのシステム2を適切に働かせること。何にしてもそうだが、技術的な勘所(可能性と限界)を押さえないでハイプを撒き散らすことも、その逆に、技術そのものの良し悪しだけで社会における機能が決まるという技術決定論にも、どちらにも与せずに、バランス良く物事を判断していきたいというのが、自分にとっての技術者倫理なわけだ。
少し技術的な話。デジタルコピーという技術的な行為そのものはノーコスト。一方で、ある人が正当にコピーしたのかどうかを確認する行為にはコストがかかる(最悪、裁判になる)。また、コピーしたものを利用するということになると、コストが嵩む(こちらは現状のNFTではカバーできず、契約次第)。分けて考える必要あり。また、NFTで希少性を技術的に担保することはできないけど、では現行の社会的な取り組みでそういうことができているかというとそうでもない。アートの世界でエディションを限って希少性を持たせているが、それにしたってギャラリーへの信頼が可能にしているだけのことではある。意味づけは社会の仕事。
そうなると、NFTである必然性がどこにあるのかということになる。NFTの技術的な強みはトークンとアドレスの紐付けの完全性、移転容易性、透明性の3点にある。これを代替できる手段があるのか、経済システムのアップデートに対して、社会的な意味づけにとって有用であるか次第。先行きはわからない。代替可能な手段は他にもあり得るのかもしれない。それは技術的に探求すれば良い話。一方で、技術だけでは決まらないので、有用性への社会的承認を調達する必要もあって、そのためにユースケースが喧伝されるのもまた自然。それらのバランスを失しない議論が必要である。
落合陽一さんと伊藤穰一さんの対談「WEEKLY OCHIAI シーズン5 | インターネット 98 to 22」を観る。Joiはビットコインのストリクトなビジョンが好きでEthereumはあまり好んでなかったというが、昨年4月ごろから意見を変えてNFTやWeb3を支持するようになったということ。意外。