Category批評

希望は過去にしかない

最近はわりと面白い本が多くて、楽しいなぁ。新しい本にもいいのはたくさんありますが、復刻モノも異常にアツい。ドゥルーズ/ガタリの本が、小泉義之さんによる『意味の論理学』、宇野邦一さんによる『アンチ・オイディプス』、ともに新訳、しかも河出文庫から出てるし。即座に注文した。以前の訳本の刊行からちょうど20年経ってるわけだし(「意味」は’87年、「アンチ」は’86年)、過去の遺産を新たな文脈で読んでいきたいところだよなぁ。

意味の論理学 上 (1)

意味の論理学 下 (3)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症

音楽でいえば、ますます高柳昌行さんがアツかったりしますね。今日は新入荷のお知らせを受けて3枚購入したりして、延々聴いたりしてます。JINYADISCを見てると、いろいろあります。そのあたりの事情は、「1975年の高柳昌行 01」を読むと、なかなかに感動的です。いまや、iTSで高柳を聴けたりしちゃうんだよねぇ。すごい世の中であります。『汎音楽論集』も出てたりしちゃってる。

汎音楽論集
  • 高柳 昌行
  • 月曜社
  • 2006-12
  • ¥ 3,780
  • Book

フラワーガール

実作者と評論家について

実作者と評論家との関係について、後者が前者に寄生し、実作もできないくせに口先だけで好き勝手なことをいってるだけの連中でしかないと見做されがちな風潮がある。いやまぁ、そういう評論家は確かに多いんだろうけど、だからといって評論ってのをそういうただのいいっ放しだとしか捉えられないのは、損してるなぁと思う。理由はふたつ。

  1. 評論にも、それ自体が作品としての、つまり実作としてのクオリティを持つものがたくさんある。つまり、評論を、必ずしもなにか実作とは別物の、寄生的なものであると見做すことはできない。
  2. しかし、そういった評論が現に存在しないジャンルというのも多分あるんだろうけど、しかし優れた評論を持たないジャンルは、不幸である。

ワイドショーとかでろくでもないことを述べ散らかしている「〜評論家」だとか、あるいはネット等で好き勝手にあれはいいだのダメだの書き散らして評論家ぶっているような連中によって、上記したようなイメージは形成されているのだろう。確かに、そういう連中は有害。
しかし、たとえば映画評論といったら、なんかヘンなしゃべりかたのふたごの片割れがテレビでぎゃーぎゃーゆってるみたいなイメージしか持っていないひとは、じゃぁ蓮實重彦氏の映画評論を読んだことがあるのかといったら、多分読んだことなどないだろうし、ましてや、立教ヌーベルバーグなんて知るよしもないだろう。
また、小説なんて面白ければいいし、文芸評論なんて、作家がいなければなりたたない寄生虫みたいな連中で、役に立つとすれば、なんか暇つぶしの本を探すときに書評を参考にする時ぐらいだと思っているひとは、小林秀雄から東浩紀氏まで脈々と続いてきた、文芸評論家と小説家との関係など知りもしないのだろう。
良質な評論を知らず、かつ、そういった評論が存在しないジャンルしか知らないひとであれば、評論について、ワイドショー的なイメージしか持てないのは、まぁ理解できないことではない。しかし、自分が知らないからといって、評論全般がそのようなものだと決め付けるのは、面白いものをみすみす取り逃がすことになるだけだろうし、たまたま知っているジャンルがそうだからといって、他のジャンルもそうであると決め付けるのは不公平だろう。
我々はそのような偏狭に陥ることなく、面白いものをもっと素直に追求していきたいものである。

© 2020 栗林健太郎

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