日記はScrapboxに移動しました。

  • 園子温・監督、オダギリジョー主演「HAZARD」

    カタギリジョー演じるシンは、作中何度かくりかえされるナレーションにある「眠い日本、眠れない日本」を単身飛び出して、91年、ジュリアーニ市長以前の、いまだ犯罪発生率が極度に高く危険だったニューヨークに飛び込む。そこで映画のタイトル通りの”HAZARD”を求めて、露天でその単語の書かれたTシャツを見つけてハシャいだりするものの、通りがかった女の子に「そんなヘタな英語、聞いたことない」と嘲笑されてブチギレ、あてどなくぶらついてみるものの、いかにも危険そうなブラザーたちに声をかけてみたらば、「奇遇だな!俺、HAZARDって名前なんだよ!」などと適当なことをいわれて意気揚々ついていき、結果、そっこーで身ぐるみはがされ、鏡に向かって「この小心者!小心者!」と呪詛の言葉を吐きながら、たたき割ってみせるのが精一杯。

    そんな彼が、金もなく、コンビニで万引きしようとしている時に出会ったふたりの男は、「お腹すいてるの?まぁ、見とけ」などといいながら、いきなり銃を取り出し、パン強盗。ひとりはリー。詩人を自称し、マンハッタンを上半身裸にネクタイという格好で、奇声を上げながら人々に絡んで歩くことを詩のパフォーマンスと称する、謎のバイリンガル、その実アイスクリーム屋経営というよくわからない男。もうひとりは武田。坊主頭でひげ面の、イマドキの若いアンチャンという感じの、しかしいつニューヨークにやってきたのが、なにが目的なのかもわからない危険人物風に見えて、実は純朴な恋する男。そんな彼らに、なにがなにやらわからないままに仲間に引き入れられて、彼らの危険な遊びにのめり込んでいく。

    ……といったお話で、若者が無軌道な青春を謳歌する的な、まぁよくあるタイプの映画なわけだが、ストーリーもさることながら、いちばん印象に残ったのは、ジェイ・ウェストの、異様にテンションの高い演技ぶりだったりする。この俳優、初めて見たのだけど、ブラッド・ピットリヴァー・フェニックスを足して2で割ったようなルックスで、ブラザー気取りの英語と日本語の高速ハイテンションなチャンポン言語を操り(実際には、カナダ出身で、さらにフランス語もおてのものだそうな)、銃をぶっ放したり、従業員に最近の成果について報告を求めたかと思いきやいきなりぶん殴ったりするのが激励だったりする、先述したとおりの破天荒キャラクタである一方、ホイットマンの詩を参考書に、シンにマンツーマンで英語を教えつつ、イーストリヴァーだかハドソンリヴァーだかを眺めながら、この世の悲しみを詠った詩を暗誦して見せるような一面も見せる。オダギリジョーのファンなので、彼目当てに見始めたにもかかわらず、リーばかりが心に残る結果となった。

    ラストは、この手の映画ではお約束のごとく苦い結果に終わるのだが、しかし、リーの不安げな、あるいは、諦念の感じられる表情とは対照的に、なにやらむやみな自信を抱いたシンは、日本に戻ってひと暴れするべく、渋谷にたむろする悪そうな兄ちゃんたちとまずは一戦交えたりするのだった(こういう結末は、上述の通りお約束なので、こう書いてもネタバレにはならないだろう)。まぁ単純に、若い人が観ればなにかしらの奮発を喚起する映画たり得るのだろうし、そうでないひとが観ても、ここではジェイ・ウェストの素晴らしさについて述べたが、オダギリジョーはもちろんのこと、武田役の深水元基の純情ブリッコ演技もなかなかにいい感じなのだし、脇役として出演する池内博之もかっこいい。残念ながら、女の子についていえば、本作は全くもってなにも得られるところのない映画だったのだが……。

    本作は、06年12月に公開されたが、園子温監督インタビューによれば、実際に撮影されたのは02年だったという。

    長いこと寝かして、やっと公開になります。

    『HAZARD』園監督&ジェイ単独インタビュー [映画] All About

    その間、どんな事情があったのかはよくわからない。ただまぁ、青春映画なのであってみれば、公開時期の今昔は問わないエヴァーグリーンなものでなければ失敗作と断じる他ないのであってみれば、たいした問題ではないだろう。本筋から離れるが、冒頭に「91年、ジュリアーニ市長以前の、いまだ犯罪発生率が極度に高く危険だったニューヨーク」と書いたものの、スティーブン・D・レーヴィットとスティーヴン・J・ダブナーとの共著『ヤバい経済学』を読むと、成果が喧伝された、割れ窓理論に基づくジュリアーニの治安対策も、眉に唾して聞くべきものであったことがわかったりもする。

    ヤバい経済学 [増補改訂版]

    ヤバい経済学 [増補改訂版]

  • 「時をかける少女」

    ,

    アニメ版「時をかける少女」を見た。まず、冒頭の数十分、たとえば主人公が坂道を自転車でだーっと駆け下るところとか、はいはいアニメアニメと思っていても、そのあり得ないがさつにイライラして、落ち着かない。ただまぁ、絵はきれいだし、ストーリだって、ストレートに恋愛ものにもってったのねと思いつつも、それなりによろしい。また、最近はオッサン化が致命的に進行したせいで、単にウェルメイドでしかない叙情にすら、まぁ乗っちゃえる、つまり、泣いちゃえるので、コウスケを助けようと走るところとか、チアキとの別れのシーンとか、普通に大泣きしてたんだけどw
    だからこそ、ラストが本当に許せない。バカじゃねーの。なんで過去の人間にはタイムリープの存在を知らせちゃいけないというルールがあるのか。そんなの、人生が一回きりということこそが、この世界がいまこのようにあることの基底だからじゃねーか!だから脚本に、タイムリープで幸せになったひとがいる反面、不幸になったひとが必ずいるというエピソードを、カズコさんがセリフでそれとなく述べるに留まらず、しつこいぐらいに何度もなんども描き込んだんだろうが!
    それなのに、そのルールはいつの間にかうやむやにされ、未来人はタイムリープの存在を簡単にバラしたくせに、マコトの記憶を消す(裏を返せば、マコトに対する愛情を断念する)ことで責任を取ることもなく、「未来で待ってる」などとそれっぽいだけのセリフを述べ散らかし、マコトが最後、「これからやることが決まった」的にポジティヴにしめくくるなんて、本当に罪深いことだ。ポジティヴな意志さえあれば、倫理も、ましてや世界すらも、無視し去っていいのか。それなんてサンマーク出版?原作は読んでないからしらないけど、大林宣彦版がああいう風に演出したのは、そういうことでしょ。ほんと、完璧に興覚め。非常に残念だ。
    とりあえず、マコトが投身しようとしていると思いこんだ妹が「動機は?」と問い詰めるあたりや、その後、シャツの裾をつかんで歩いているあたりが萌え過ぎたので、もうなんだっていいよ!どうせアニメなんてそんなもんだろ。

    時をかける少女 限定版

    時をかける少女 通常版
  • 映画版「ハチミツとクローバー」に学ぶ、安い話の作り方

    僕は大変なド田舎に住んでおりますゆえ、ほとんどの映画は DVD がリリースされた後にしか観ることができません……。そんなわけで、「ハチミツとクローバー」が映画化された、それも蒼井優さんがはぐ役で!という話を聞くに及び、一刻も早く観たい観たい観たい観たいと思いつつも叶わず、悔しさに泣き濡れる日々を送っていたのですが、先日の DVD のリリースによりようやっと観るに及びまして、我が事ながら慶賀の至りに存じます。
    肝心の映画についてですが……えーと、えーと。。。
    ってな具合に、なぜかちょっとごにょごにょと書き澱んだりしちゃうわだかまりのようなものが、素直な感想を書こうとしたいま感知せられて、あんなに待ち望んで観るにいたった映画なのに、よもやネガティヴなことは思うまい!などと自己検閲的な気分になったりしてます。そこで、ちょっと別の観点から、この映画版「ハチミツとクローバー」について述べてみたい。
    映画を観始めて、すぐに不審な思いでいっぱいになる。はぐにしても森田さんにしても、映画に映し出される彼らの作品が、他の登場人物たちがみな一様に「すごい……」と驚くことに素直に共感できるほどにはすごくないので、映画内キャラクタが盛り上がってる一方で、映画を観ている我々は「えぇ……?そんなにすごいとは思わないんだけど……」と、なんだか置いてけぼりにされたような気持ちになるのだ。しかし、そうやってダメなところを単にクサすだけなら、まぁ、誰にでもできることだ。それなら、「じゃぁどう演出すればよいのか」と考え始めるのが、ポジティヴな映画の見方ってなもんだ。ちょっと思いついたものを、以下に書き出してみる。

    • 誰が見ても本当にすごいと感じるだろう作品を誰かに発注・制作させ、それを画面に映す
    • 画面に作品を映さずに(あるいは中途半端にしか映さずに)、登場人物の「すごい……」という驚きの表出からの反映によって、作品のすごさをなんとなく観客にわからせる
    • 作品はあのまま、映し方もあのままで、ふたりのキャラ造形をもっとずっと「すごい……」的な感じに演出することで、人間性が「すごい……」なら作品も「すごい……」んだろうと思わせる
    • 本当はあの作品は誰が見ても「すごい……」のだけど、映し方が悪いのであんまりすごくは見えないのだとすれば、撮り方を改善して、作品をちゃんとすごく見せる
    • ストーリを改変して、いや、あのふたりは別にそんなにすごくはないんだよ、ということにする(←それ、ハチクロじゃなくなってるじゃんw)

    しかし、この映画を作った方々はさすがにプロ。僕のような素人は、上記のような解決法をナイーヴに発想しちゃうんだけど、この映画が実践している、そしてこの問題に対する正解はもっとシンプルかつ巧妙で、僕の案などよりずっと効果的です。
    観客は、最初に映画内作品を見た段階では、先述の通り「えぇ……?そんなにすごいとは思わないんだけど……」と感じている。しかし、それでは映画としては成り立たないので、どうにかしないとならない。ここで取り得る戦略はふたつ。

    1. 実際に映し出されている作品を改善するか、演出を改善することで、作品自体の質を高める
    2. 作品も演出もそのままに、観客があの作品を実はいいものなのだと思うように誘導する

    つまり、映画という「客観」を変えるか、はたまた、観客という「主観」を変えるか。この整理によれば、僕が上に挙げた案は、どれも一番目の映画の画面そのものを変えるという案。一般的にいって、世界を変えるにはふたつのアプローチがあり得ます。「世界」を変えることと、「自分」を変えること。これらは論理的に等価。だが、それが現実世界に要求するコストは、後者、つまり主観を操作してやるほうがずっと安いわけだ。だから「それなら観客の感じ方をいじってやればいいじゃん」というのが「ハチクロ」の回答。
    具体的には、はぐの絵をコンテストに出すとかなんとかいう場面で、なんかイヤったらしいオバサンが「抽象」はコンクールにはふさわしくないからダメだと、一般人(つまり我々)の芸術に対する理解(無理解)を代表する意見を述べる一方で、花本先生が「はぐの好きに描いたら」いいというようなことを述べたり、あるいは、山田さんが川縁の土手で子供たちに絵を教えている場面で、「みんな、このお姉ちゃんのよりもメチャクチャな絵を描こう」などと叫んだりすることで、観客が抱いている「別にすごくないけど……?」感は、感性の赴くまま好きに「メチャクチャ」に描いているはぐの抽象芸術を理解しないあのイヤったらしいオバサンと同様のものなだと貶め、それをもって「あぁ、自分はあの絵をそんなにすごいとは思わなかったけど、それは芸術への無理解のせいなのだ。教養が足りないせいなのだ」と、誰もが不安に思っているのだろう弱みにつけこみ、観客の芸術鑑賞に対する考え方を啓蒙し、その反映として、映画内の作品を光り輝かせるという手法である。
    また、仮に観客がその評価を改め「すごい……」と思うようにはならないまでも、そこまでいうのなら、「別に……?」という気持ちのままで映画を観たって楽しくもなんともないので、しかたなく「まぁ、このふたりの作品はすごいということに、この映画の中ではなっているのね」てな具合で、いいように配慮をする方向で改心するかもしれない。
    これらの手法は、僕が上にリストしたいずれの手法よりも安上がりだし、効果もあるだろう。90年代から猖獗を極めている「セカイ系」は、いまやこうして観客操作の術として利用されるにいたったわけだ。「ハチミツとクローバー」こそ、21世紀にふさわしい新たな「セカイ系」映画であるといえるだろう。いま、映画で、いや、映画に限らず表現全般で身を立てることを志す者が習得すべき技術とは、「ハチクロ」に見られるような、プロパガンダの技術である。洗脳してなんぼ。しかし表現とは元々そういったものではなかったか。
    ところで、蓮實重彦氏は「プライベート・ライアン」を例に出し、画面を軽視し、単なる「劇的状況」についての観客の「理解」を喚起すればそれでよしとする映画について、むなしくはないのだろうかと述べている。

    よく挙げる例ですけれど、スピルバーグの『プライベート・ライアン』(1998)の墓地に出てくる顔は、みんな忘れちゃっていい顔でしょう。どれひとつとして、その顔を憶えていなければその後のフィルムの流れにすがりつけないという記号ではなく、どれも忘れてしまっていい。これはスピルバーグに対してどうしても最後まで残ってしまう私の疑問なんです。つまり、シナリオ通りにその画面を撮ったけれども、あそこに出ているひとで憶えなければならない顔がまったくない。だから、あの場面はほとんど見る必要がなく、劇的状況を理解すればそれでよい。しかし、そうした場面を演出することに、むなしさはないだろうかという疑念が最後までまといついて離れません。

    これは「ハチミツとクローバー」についても同様にいえることで、「プライベート・ライアン」が「顔」の忘却を問題としないのと同様に、「ハチクロ」もはぐや森田さんの作品が実際に、本当に「すごい……」ものとして画面に映し出されているかどうかなど問題とせず、説明的な場面を1, 2個配置し「劇的状況を理解すればそれでよい」という観客の配慮を求めるわけだ。そこに「映画」 = 「世界」など存在しない。あるのはただ、作り手と観客との主観的な共犯関係に基づく「物語」 = 「セカイ」だけだ。しかし、新世代の表現者は「忘却」を演出することに対する蓮實的な、旧弊な「むなしさ」などかなぐり捨て、フレッシュな表現を追求していくべきなのだろう。映画版「ハチミツとクローバー」は、そう主張しているのだ。大変に心強い限りである。

  • 「ドッグヴィル」により、自分的オールタイムベスト映画が久々に更新された!

    先日、たまたまラース・フォン・トリアー監督の「マンダレイ」を借りて、観た。映画から遠くはなれ過ぎているため、ラース・フォン・トリアーさんが “USA – Land of Opportunities” なんてシリーズをやっていて、「マンダレイ」がその 2 作目であることなど知らずになんとなく借りたのだったが、これがほんと素晴しかったので、さかのぼって 1 作目の「ドッグヴィル」を観た。そしたら、きたこれっっr!!!!!久々に、自分的オールタイムベスト映画久々に更新された!!!!!大興奮!!!!!!!!!11123234
    ラース・フォン・トリアー監督の映画は、劇場公開されたものに関していえばわりとほとんど観ているのだし、その全部がすごく好きなのだけど、徹底的な悪意でもって攻めてくるそのスタイルが、わりと体力的に厳しい境地を要求するので、ストレートに素晴しいとは言い難かった。しかし「ドッグヴィル」は、もうこれは認めなければならないだろう。これまでの僕のオールタイムベストは、サム・ペキンパー監督の「わらの犬」(あえていえばそれというだけで、ペキンパーの映画はどれも全て素晴しい)だったのだけど、今日からは「ドッグヴィル」だ。もうなんでいままでこれ観てなかったんだ……。
    いやもう、いまはただ大興奮したことを書き留めておくぐらいのことしかできないぉ。。。

  • 最近観た映画「ミッション・インポッシブル3」「ブロークンフラワーズ」「ヒストリー・オブ・バイオレンス」

    あんまり評判がよくないようだけど、まぁ普通に楽しめた。ジョン・ウーが撮った前作よりはよかったと思うけどなぁ。第1作の余韻を引きずって観れば、まぁいずれもアレ、ってことになるんだろうけど。あとフィリップ・シーモア・ホフマン最高。

    老境にさしかかったオッサンの、人生見つめ直しロードムービー

    なんとも印象に残らなさ過ぎる映画だなぁ。どうでもいいけど、ああも過剰にみえるほどスキンシップを取る必要のある家族って、大変そうだなぁと思ったりしながら観てた。

  • 最近見た映画「好きだ、」「嫌われ松子の一生」「コラテラル」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」

    好きだ、

    冷静になって考えるまでもなく、最初からわかりきった話である上に、その過程はショボいのひとことなのだし、思わせぶりでしかない長い間とかもイライラさせられるのだけど、ただただ 17 歳編の宮崎あおい+瑛太、34 歳編の永作博美西島秀俊の素晴らしさのみにより、20 分以降あたりからひたすら涙が溢れてとまらなかった。

    下妻物語」は、テレビで放映されたときに見ようと思ったが、10 分ほどで耐えられなくなって消したのだったが、本作もかなり無理。こういうの嫌い。
    ただまぁしかし、ひとの一生みたいな話は好き、というか、いろいろ身につまされる感じがしてつい見入っちゃうので、本作は最後まで見た。コメディとかいうけど、全然笑えない。昭和 22 年生まれの松子さん、昭和 60 年代以降は、ほんと陰惨な生活送ってるんだよ?若くて美しいうちはいいけど、年取ったら終わりって話じゃんすか。まぁ、真実を語っているのかもしれなけど、ほんと笑えない。

    コラテラル スペシャル・コレクターズ・エディション

    マイケル・マンをちゃんと見返そうブームなので、とりあえず「コラテラル」借りて、観た。ひたすらトム・クルーズがかっこいい。

    なんとなくいままで見過ごしてきたのだけど、ようやっと観た。素晴しいのひとこと。

  • 黒沢清・著『黒沢清の映画術』と宮沢章夫・著『東京大学「80年代地下文化論」講義』

    ,

    黒沢清インタビューをまとめた『黒沢清の映画術』が激烈に面白過ぎるので、英語ブログをやるためにはてな禁止しているのにもかかわらず、うっかり更新しちゃう。あまりにも必読過ぎる。
    また、’55 年生まれの黒沢さんのいっこ年下の宮沢章夫氏による『東京大学「80年代地下文化論」講義』も面白い。こっちはまぁ読んでるのが普通、ぐらいの感じ。

    黒沢清の映画術
    黒沢清の映画術

    posted with amazlet on 06.08.19
    黒沢 清
    新潮社 (2006/07/28)

  • CONTINUE vol.28

    , ,

    “CONTINUE” vol.28 は蒼井優さんが表紙に!即購入。
    ハチミツとクローバー」が映画化されるからってんでのことらしい。「ハチミツとクローバー」って漫画はコミック買ったりしてるくせに大嫌いなんだけど、この映画には超期待です!蒼井優さんのみに!!!
    あと、「ゲームセンター CX」の特集なんかもあって、今号の “CONTINUE” はわりとよいです。