待ちに待った落合渉悟『僕たちはメタ国家で暮らすことに決めた』(以下、本書)がついに刊行された。この記事では、紹介という意味での書評というよりは、読中・読後に考えたことについて原理的な面から述べてみたい。
本書の位置付け
Web3を特集した「WIRED(ワイアード)VOL.44」において、「国のためのDAO」(p.192。以下、ページ番号のみ記載する場合は、すべて本書への参照を示す)であるDAO for Nation(DAO4N)について語っていた落合氏は、本書では打って変わって 「マイクロパブリックを生み出すシステム」(p.193)としてのAlgaについての「取説」(p.41)として本書を上梓した。なぜ国が対象ではないのか。
理由は明白だ。使ってみてもいないものを国が採用するはずはない。使ってみて、その利便性の高さを腹落ちしてこそ、人はその価値を知るし他の人々にもその価値を伝え、共有しようとするものだ。
p.195
自明にも思えるが、しかし極めて現実的な見解であろう。著者のいう「マイクロパブリック」とは、以下のごとき存在である。
マイクロパブリックとは何か。
読んで字のごとし、「小さな公共空間」だ。公共空間といえば、誰でも公平に使える空間のことをいうが、マイクロパブリックとは、個人の目的を行使することができる公共の空間といったところか。そこには、自治会があり、マンションの管理組合があり、PTAがあり、生徒会がある。他にも自分の目的が叶うはずの公的な場所はいろいろ考えられる。
p.192
本書で著者がプレゼンテーションするAlgaとは、そのような「マイクロパブリックを生み出すシステム」(p.193)である。国ではなくマイクロパブリックを探求と実践の緒として選択した著者の意気込みはこうである。
誤解されてもたかだか町内会のアプリだよね、というところから地ならしをしていく。公共にリーダーがいないというのはどういうことなのかを、頭と体で理解している層を増やしていくことが、外堀を埋めていくというか(中略)。
p.125
著者は、この本ではあえて天下国家についての語りをできるだけ差し控え、我々ひとりひとりにとってイメージすることが容易で、それぞれの立場においてすぐにでも実践に移せそうなスコープから、事を語り始めるのである。
そのための道具としてのAlgaは、本書においてはあたかも既に使えるものであるかのように述べられているが、実はそうではない。
開発ロードマップとしましては一年以上前の段階で各モジュールのプロトタイピングが終わっており、実現可能性については目処が立っています。今年(引用者註:2022年)の後半にかけてコミュニティ主体で開発していければと考えています。
【取材】ブロックチェーンで民主主義の改善を目指す、DAOアプリ「Alga」発表(落合渉悟 インタビュー) | あたらしい経済
差し当たっては、この「取説」を熟読すること。自らの意見・感想をフィードバックすること。そして、可能であれば開発に参加してみること。もちろん、Algaがリリースされた暁には、ユーザとして使ってみること。まずはマイクロパブリック目線において、著者が描く世界の展望への参加を呼びかけるというのが、本書の目的とするところであろう。
「いじらしい存在」としての国
そもそも本書のタイトルにも含まれる「メタ国家」とは何か。本書は「国家を支える3つの要素」としてを(1)民族自決権、(2)犯罪人引き渡しの拒絶、(3)人権保護が可能な唯一の主体であること、の3つを挙げる(p.17)。その上で「メタ国家」を以下の通り定義する。
メタ国家は上記の、国家を支える3つのうち、そのいずれかの要素を持ち、かつ国家にしかできないことができるならそれは国家なのだ。
(中略)
僕の作ったメタ国家を生み出す仕組みの名は「Alga(アルガ)」。Algaはスマホ一つでメタ国家を作れるプラットフォームであり、動的な人権保護機構である。
p.18
ここで定義されている「国家を支える3つの要素」というのが、3つで全てなのか、例示なのかは判然としない。「メタ国家」を定義する引用箇所は、果たしてそれは「国家」であるのかないのか、それもまた判然としないように思われる。そのため、この定義には言葉足らずの印象を覚える。
この文をチャリタブルに読むならば、こうも考えられるように思う。すなわち、「公共性のある限定された次元を担うにすぎず、そのすべてを包含するわけではない」と齋藤純一『公共性』が位置付ける(同書p.7)ような意味において、国家をまずは相対化しようというのが「メタ国家」の「メタ」たる所以なのだろう。また、「3つのうち、そのいずれかの要素を持」てば十分とされる「メタ国家」とは、国家に対する私たちの「assumption(前提)」(pp.245-255)を切り詰めるための概念操作であるとも読める。どういうことか。
御厨貴他編『舞台をまわす、舞台がまわる – 山崎正和オーラルヒストリー』で、山崎正和は再三にわたって「国家」は「いじらしい」存在であると感じていた者たちの話をする。
私は象徴的に森鴎外までを第一世代と呼んでいます。それはどういう人たちかというと、自分よりも国家のほうが小さいと思っている。国家をいじらしい存在だと感じている人たちです。(中略)
これが永井荷風になると、もう政治は全くの埒外になってしまう。(中略)メンタリティの点で、このあたりが第二世代の始まりです。第二世代の大きな特徴は、まず国家が自分より大きくなっているという意識です。国家を偉大と見るか、抑圧的と見るかのどちらかですね。
御厨貴他編『舞台をまわす、舞台がまわる – 山崎正和オーラルヒストリー』(p.332)
明治維新以後の「第一世代」を象徴する森鴎外にとって、国家は「いじらしい存在」であった。別の箇所では「鴎外の段階では、国は可愛がってやらなければならない、庇護してやらなければならない存在だった」(同書p.192)。それは、明治維新以降の近代化を支えるエリートとしての強烈な公共心の表れであっただろう。
1934年生まれの山崎正和は、「第二世代」どころか昭和生まれであってなお、国について鴎外=第一世代的イメージを持っていたという。
生意気をいわせていただければ、日本国家が非常に小さく見えた。日本はのたうって苦難を味わっていた。左翼の人たちにとっては、日本は憎むべき巨大な権力だったかもしれない。しかし私から見ると、波間に漂う笹舟のようなもので、一つ間違えると本当にひっくり返るという状況に見えていました。明治国家に対する鴎外たちのような力を、昭和国家に対して私たちが持っていたとはとても思えません。でも貧者の一灯というか、何かを寄与したいという気分は似ていました。
同書pp.170-171
30代にして有力な若手知識人として、佐藤栄作をはじめとする歴代の首相のブレーンを務めたほどの大人物ならではの感慨というべきか。ともあれ、いまの私たちにとっては(当時においてだってそうだっただろうけれども)、遠く離れた認識であるかのように思える。
なるほど、国というものをただ私たちがいま想念しているようものとして捉えればそうだろう。しかし、本書のいう「メタ国家」とは、国という存在に対する私たちのassumptionを切り詰めることで、いま一度、国というものを「いじらしい存在」へと変える概念操作なのではなかろうか。すなわち、ただただ「偉大」あるいは「抑圧的」と思えるだけの国家を、マイクロパブリックとしての、あるいはそれらの群れとしての「メタ国家」へと開いていくことで、「いじらしい存在」へと認識を変えていくということである。
「自立共生的な道具」としてのDAO
国という存在へのassumptionを切り詰めることによって、何が可能になるのだろうか。そのことについて考えるための切り口として、本書の導入する「道具」という概念について検討する。
国に対する「第二世代」以降的なassumption(つまり私たちにとってのそれである)は、国について「偉大」であれ「抑圧的」であれ、肯定的であれ否定的であれ、いずれにせよ自らとは遠く隔たるものと観念することによって、むしろ望ましくない結果に加担することになっていたのだというのが、本書の見立てであろう。そのようなassumptionを支えるのが「道具」である。
国家とはマクロ的現象であり宗教的現象なのだろう。領土的野心と民族というアイデアが、制空権やエネルギーや統治システムという道具から想起され、結果的に社会的実態として結実するにすぎない。道具のアイデアに支えられたか細い存在。
p.29
第一世代=森鴎外的な「いじらしさ」の感覚とは遠く離れた、私たちが抱く国に対するよそよそしい観念こそが、国という本来的には私たちがより良く生きるための「道具」でしかない存在を「制空権やエネルギーや統治システム」に必然的に結びつけて止まない。そのことが、本書が再三にわたって指弾する人権侵害を惹起しているばかりか、それに対する反省をすら、ややもすると「しかたがない」こととみなす無力感によって無化してしまったのだろう(一方で著者は国について「か細い存在」と、山崎的な感慨をいみじくも述べている。著者の大人物たる所以である)。
あるいは、天下国家はともかくとして、私たちの日常生活においてもまた同様の事象は観察可能であるかもしれない。たとえば、本書にはこんな「余談」が記されている。
余談として付記するが、Googleは果たして道具といっても良いだろうか?使い手の意に反して政治的に突然挙動が変わるモノに僕たちは手に馴染んだ道具としての信頼関係を築けるだろうか?
p.25
Googleに対する、Web3と呼ばれもする昨今の潮流と同期するこうした評価については、賛否両論あるだろう。ここでは、ことの成否について論じようとは思わない。そうではなく、私たちがどのような「道具」を用いるかが決定的に重要なことであるのだという意図を汲み取ろう。「いじらしい存在」としての国家へと切り詰められた私たちのassumptionが、よりよい社会の実現へと動機づけられるためには、「手に馴染んだ道具」を見つけなければならない。
本書のいうマイクロパブリックにおける、人々のあるべきあり方について、イヴァン・イリイチは「自立共生的(コンヴィヴィアル)」という言葉をあてた。
すぐれて現代的でしかも産業に支配されていない未来社会についての理論を定式化するには、自然な規模と限界を認識することが必要だ。(中略)いったんこういう限界が認識されると、人々と道具と新しい共同性との間の三者間関係をはっきりさせることが可能になる。現代の科学技術が管理する人々にではなく、政治的に相互に結びついた個人に仕えるような社会、それを私は“自立共生的(コンヴィヴィアル)”と呼びたい。
イヴァン・イリイチ著、渡辺京二他訳『コンヴィヴィアリティのための道具』(p.18)
そして、そのような社会は、彼が「自立共生的な道具」と呼ぶ道具によってこそ成立するのである。彼にとっての道具とは、ハードウェア的なものばかりでなく、制度や法のような「社会的工夫」のようなものも包含する。その上で、望ましい「道具」のありさまを以下のように説明する。
自立共生的な社会は、他者から操作されることの最も少ない道具によって、全ての成員に最大限に自立的な行動を許すように構想されるべきだ。(中略)自立共生的な道具とは、それを用いる各人に、己の想像力の結果として環境を豊かなものにする最大の機械を与える道具のことである。
同書pp.58-59
そのような「道具」とは、たとえばどのようなものなのだろうか。具体的に見てみよう。本書では、星暁雄氏との対談においてコンピュータの歴史が参照される。そこからの連想により、補助線を導入する。1996年に刊行された古瀬幸広、広瀬克哉『インターネットが変える世界』は、初期のポータブルコンピュータであるOsborne 1を設計したリー・フェルゼンシュタインについてこう述べられている。
イワン・イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』を読んで感銘し、それを実現するためにパーソナルコンピュータをつくった
古瀬幸広、広瀬克哉『インターネットが変える世界』p.6
そして、そうしたハッカーたちの共通の動機についてこう述べる。
革命(引用者註:パーソナルコンピュータ革命)に参加したハッカーたちの目標は、コンピュータの能力を大衆に解放し、それを使って知識と情報を共有することであった。すなわち、コンヴィヴィアルな道具としてのコンピュータシステムづくりに邁進したのである。
同書p.9
こうして見ると、前述のイリイチによる「コンヴィヴィアリティのための道具」とは、ここでの私たちの文脈においては、まさにDAOの設計指針について述べられたものであると読むべきだろう(というか、もはやそうとしか読めない)。そうしてみれば、パソコンやインターネットの歴史が営々と生み出してきた「道具」たちの末裔こそが、DAOなのであった(もちろん、Algaを利用する上で唯一必要となる道具である「スマホ」もまた)。実のところAlgaとは、そのような「道具」を生み出すための「道具」の謂いである
連帯への「感情教育」
以上の通り私たちは、適切な規模に切り詰められたassumptionによって、マイクロパブリックにおいて自立共生的に生きていくための道具としてのDAOを手にすることになった。一方で、やはりことが最終的には社会の変革を目指すのであってみれば、そうしたボトムアップな戦術論のみならず、トップダウンのビジョンもまた必要とされるだろう。
そこで持ち出されるのが「世界人権宣言」である(本書には谷川俊太郎訳の世界人権宣言が収録されている)。Algaとは「「人権」という僕らが本来、持っているべきはずの権利を権力から取り戻すことができる時代が訪れる。それを実現する」(p.58)ためのものなのである。
国家へのassumptionを身の丈にあったマイクロパブリックに切り詰めることは、同時に、誰がその身内なのかを狭く捉えることにもつながり得る。それは、フォーカスすべき対象を適切な「限界」(イリイチ)に押しとどめることであると同時に、社会がバラバラになってしまうことにもつながりかねない。であるからこそ、普遍的な原理原則としての、また、国家に対するカウンターとしての「人権」概念が持ち出されるわけだ。逆にいうと、人権という価値を前景化するためにこそ、そうし切り詰めと道具の精錬が必要とされたということでもあろう。
リチャード・ローティは、ともすれば狭まってしまいがちな私たちのassumptionを拡大する営みを「感情教育」と呼ぶ。彼は、道徳を次のような事態として捉えている。
ローティが『偶然性・アイロニー・連帯』において主張したのは、「残酷さこそが私たちのなしうる最悪の事柄である」と言うシュクラーの考えに同意し、「正しい道徳」が実在するのではなく、「残酷さ」と「苦痛」に対する感受性を磨くことによって向上するような道徳性が存在する、ということである。
大賀祐樹『リチャード・ローティ―1931-2007 リベラル・アイロニストの思想』p.180
そして、そうした道徳を拡大していくために必要なのが「感情教育」であるというのだ。
ローティによると、そのような道徳が拡がりを持つには、「われわれ」という意識を拡げる以外にない。そしてそれは、「感情教育(sentimental education)」によって、より遠くの人々の残酷さや苦痛に対する「共感」を持つことを通じて可能になるのである。(中略)つまり、そうした「感情教育」は、残酷さと苦痛を表現する「物語」によって成し遂げられる。
同書pp.292-293
すなわち、本書の文脈でいうとこういうことだろう。私たちが自立共生的な道具としてのDAOによって運営されるマイクロパブリックからまず始めるという選択を行うのは、公共圏を「いじらしい」「波間に漂う笹舟のようなもので、一つ間違えると本当にひっくり返る」範囲にあえて引きとどめることで、ある種の道徳(本書におけるそれは「人権」である)を涵養する余裕を作り出すためなのであると。そのことで、人権概念の持つ普遍性の返す刀で、私たちのマイクロパブリックをじょじょに社会全体の連帯へと広げていく。DAOとは、私たちの感情教育ためののインキュベータでもあったのだ。
とだけいって済ませると、ローティが黙ってはいないだろう。なぜならば、ある種の金科玉条のような考えを基礎づけとして、客観的に正しい何事かが存在するなどということに一貫して反対し続けてきたのが彼だからである。
ある人格の、あるいはある文化の終極の語彙の正しさを証すものが何ら存在しないのとまったく同様に、何らかの葛藤が生じた時にその語彙をいかに再編するかを指令するような何かが、そうした終極の語彙の中に含まれているわけではない。私たちがなしうるのはただ、私たちが手にしている終極の語彙を持ってーーそれがいかに拡張されたり、修正されうるかについてのヒントに注意深く耳を傾けつづけながらーーやってゆくことである。
リチャード・ローティ著、斎藤純一他訳『偶然性・アイロニー・連帯: リベラル・ユートピアの可能性』p.409
本書の持ち出す「人権」という概念を、決定的に正しい「終極の語彙」として、すなわち議論のしようのない道徳のようなものとして理解・利用することには、私としては賛同することはできない。「何らかの葛藤が生じた時にその語彙をいかに再編するかを指令するような何かが、そうした終極の語彙の中に含まれているわけではない」のだから。
そうではなく、いまのところ私たち人類が手にしている、それこそ道具としての「人権」という概念を、テンポラリな「終極の語彙」として常に磨き続け、「われわれ」の範囲を広げていくための感情教育を自らに対して施していくこと。いかようにも変わり得る偶然性への認識=アイロニーとは、つまりそうした教育の効果による自己の変革への動因であり、それこそが連帯を拡大していく。そのための道具としてのDAOこそが、本書が差し出してくれた大事な宝物であろう。
人ならざる存在のためのDAO
2018年1月に東京藝術大学で行われたニコラ・ブリオーによる公開講義は、ある印象的な挿話から始まった。
ブリオーは、ニュージーランドの「ファンガヌイ(Whanganui)」と呼ばれる川の紹介から講義をはじめた。この川は、マオリの人々とニュージーランド政府との闘いの結果、2017年に「生きた」存在として政府に認められるに至った。つまり、川は人間ではないにもかかわらず、自らの立場においてさまざまな主張をなしうる、一個の人格と権利をもった主体として認められることになったのである。(中略)いまや、狭義の「人間」そのものの再定義が図られなければならないということである、とブリオーは述べる。
Special Lecture Report | 沢山遼 「人新世におけるアート」は可能か?:ニコラ・ブリオー、あるいはグレアム・ハーマンの「無関係性の美学」
この挿話を枕にしてブリオーは、人間からなる文化と非人間による自然とを分ける考え方を乗り越えるアートの取り組みについて紹介するレクチャーを行ったのであった。それは、人間のみならず非人間的な存在に対してもエージェンシーを認めるアクターネットワーク理論に影響を受けつつ、従来的な考え方の枠組みを再度問い直すことである。
ところで川が「「生きた」存在として政府に認められるに至った」とは、どういう事態だったのだろうか。「先住民マオリ崇拝の川に「法的人格」認める、ニュージーランド 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News」ではこう説明されている。
ニュージーランドの議会は15日、先住民マオリ(Maori)が崇拝する川に「法律上の人格」を認める法案を可決した。河川を法人と認める判断は世界初とみられる。
欧米諸国の判例とマオリの神秘主義を兼ね備えた法律は、ワンガヌイ川(Whanganui River)を「生きている実在物」だと正式に宣言した。クリストファー・フィンレイソン(Christopher Finlayson)司法長官は、「(ワンガヌイ川は)法的な人格と、それに付随するあらゆる権利、義務、法人としての法的責任を有することになる」と述べた。
先住民マオリ崇拝の川に「法的人格」認める、ニュージーランド 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
The New Zealand river that became a legal person – BBC Travelによると、「世界初」ではないということのようであるが、ともあれ自然を「法人」とみなすというのは驚くべき事態である。そのような取り扱いによっていったい何が起こるのか、非常に興味を引かれるところである。そしてそれは、具体的にこう述べられている。
法律に基づき、実際面ではマオリ側と政府側をそれぞれ代表する弁護士2人が代理人として法的手続きを行い、ワンガヌイ川の利益を守っていくこととなる。
また、ワンガヌイ・イウィには政府から、長期に及んだ裁判の損害賠償として8000万ニュージーランド(NZ)ドル(約63億円)と、川の環境改善費用として3000万NZドル(約24億円)が支払われた。
同記事
もちろんこのような任を担うのであるから、善良な人々なのであろう。環境保護にはお金もかかる。現に、少なからぬお金が環境改善費用として支払われたということではないか。ではその使い道をどうやって公共に資する形で決定するのか。それをどのように透明なプロセスにおいて実施するのか。そして、必ず訪れる「腐敗」に対してあらかじめ対処する術はあるのか。本書が述べる通り、このような事態こそ、まさにDAOが登場するにふさわしい。
私たちの「メタ国家」への旅路は、こうして人ならざる存在をも包含する「人権」意識へと、自らを「感情教育」しおおせた。「パブリックチェーンや「世界との契約」もデジタルネイチャーの一種であると認識している」(p.229)と述べる著者ならば、ネイチャーそのものを「法的な人格」へと練り上げていくようなデジタルテクノロジとしてのDAOの利用もまた、デジタルネイチャーの一つのあり方だと認めることだろう。
私はかつてこんなことを書いた。
放っておくと疲れてしまう、愛らしい「物」たちの声を耳を澄ますこと。物自体に内在する力という仮想的な認識を通して、我々の認識は社会へと開かれていく。それは、よりよいシステムを作り続けることにつながるかもしれないし、物を大事に扱うということにつながるのかもしれない。ひいては、大きくいえば社会をよくするということだ。そうした物を通しての社会への開かれを、エコロジーと呼んでみたい。目の前の物たちが「疲れてしまう」ことを真剣に受け取ることから、それは始まる。
アリストテレスを真剣に受け取る:「物」を通じて社会へ開かれるエコロジー|栗林健太郎
いまならばこれを、DAOという道具に基づいて語り得るだろう。すなわち、DAOを通じて社会をより良く見通せるようになった私たちは、私たちの「人格」の外縁が、侵されるべきでない「人権」を有する人間としての他者のみならず、非人間たる「物」たちへも拡がっていくということだ。DAOは、そうした「他者」の声をよりよく聞くための道具でもある。
引用文献
- 落合渉悟『僕たちはメタ国家で暮らすことに決めた』
- 「WIRED(ワイアード)VOL.44」
- 【取材】ブロックチェーンで民主主義の改善を目指す、DAOアプリ「Alga」発表(落合渉悟 インタビュー) | あたらしい経済
- 齋藤純一『公共性』
- 御厨貴他・編『舞台をまわす、舞台がまわる – 山崎正和オーラルヒストリー』
- イヴァン・イリイチ著、渡辺京二他訳『コンヴィヴィアリティのための道具』
- 古瀬幸広、広瀬克哉『インターネットが変える世界』
- 大賀祐樹『リチャード・ローティ―1931-2007 リベラル・アイロニストの思想』
- リチャード・ローティ著、斎藤純一他訳『偶然性・アイロニー・連帯: リベラル・ユートピアの可能性』
- Special Lecture Report | 沢山遼 「人新世におけるアート」は可能か?:ニコラ・ブリオー、あるいはグレアム・ハーマンの「無関係性の美学」
- 先住民マオリ崇拝の川に「法的人格」認める、ニュージーランド 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
- The New Zealand river that became a legal person – BBC Travel
- アリストテレスを真剣に受け取る:「物」を通じて社会へ開かれるエコロジー|栗林健太郎