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  • 真説「ブログは始めてみたいが、何を書いてよいのか分からない」と悩んでいる人のための三冊

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    そんなひとはブログなどやめりゃいいじゃないか、などという意見も聞かれたりしたが、ブログにせよなんにせよ、やってみなけりゃ面白さはわからないというのは至極まっとうな意見ではあるのだし、新しい世界にとびこんだひとが、飛躍のためのちょっとしたきっかけを欲するのは当然のことであり、しかし、Life is beautiful: 「ブログは始めてみたいが、何を書いてよいのか分からない」と悩んでいる人のための三冊においては、「何を書いてよいか」ではなく「どう書いてよいか」わからないひと向け的っぽい感じなので、というか、読んでみたいとは思えないタイトルの本しかないので(理科系なんちゃらは読んだけど)、真に「何を書いてよいか分からないひと向けの 3 冊」を選定しようかと思ったが、というよりもむしろ、僕自身にしてからが、ブログをはじめてみたはいいが、何を書いてよいのかわからないため、じゃー、最近読んだ本の感想でも書いてお茶を濁そうとかそんなことを思うに至り、しかしそれではいかにもLife is beautiful: 「ブログは始めてみたいが、何を書いてよいのか分からない」と悩んでいる人のための三冊に乗じてアサマシってみました!みたいな下品な話になりかねない!!!と脳内で協議をした結果、最近読んだ 3 冊について「これは読む必要もないし、ましてやアサマシリンクをたどって購入などすることはまかりならん!!!」という内容のエントリを書けばよいのではないか、という結論に達した。
    ちなみに、タイトルの「真説」は、「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」リスペクトです!

    嫌老社会 老いを拒絶する時代

    本書 p.12 というか、本文の 1 ページ目。

    団塊の世代は、巨大な統計学的カタマリとしてひとくくりに論じられがちだが、倍率をあげて眺めれば、これは均質なカタマリどころではない。
    (中略)
    つまり、団塊世代のなかには、資産を持った階層と、持たない階層とがあるのであって、これを一様に論じては、周囲のためにも、団塊世代自身のためにもならない。

    投げた。
    若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来』では「格差がどうのとかいうひとは、世代間の格差をいとも簡単に無視しやがるよね。死ねばいいのに」って書かれてたよ。

    ハチミツとクローバー 10 (10)

    ハチクロは、一応コミックは全部読んだけど、ただひたすらキモいという以外の感想をおもいつかない、みたいなことを友人にいったら、確かにそれはそうだが、ハチクロのよさはそういうところにはなくて、漫画として現代的にリアルな服飾をまともに表現することに成功している作品は、漫画家自身のセンスの無さのために少なくて、ハチクロとか、他には安野モヨコシュガシュガルーン」とかが挙げられるぐらいであり、そういう意味ではいい作品なのだといわれたので、じゃあそういう意味ではいい作品ですね!とか思ったけど、多分、ハチクロ好きなひとはそんなことをいわれても喜ばないと思う、だってそれ以外は全てキモいのだから。

    まとめ

    というか、本とか読む暇があるなら、℃-ute の DVD や写真集を眺める方がずっとマシだと思いますよ。心から。

    嫌老社会 老いを拒絶する時代
    • 長沼 行太郎
    • ソフトバンククリエイティブ
    • 2006-09-16
    • ¥ 735
    • Book

    グーグル・アマゾン化する社会
    • 森 健
    • 光文社
    • 2006-09-15
    • ¥ 735
    • Book

    ハチミツとクローバー 10 (10)
    • 羽海野 チカ
    • 集英社
    • 2006-09-08
    • ¥ 420
    • Book

    シュガシュガルーン (6)
    • 安野 モヨコ
    • 講談社
    • 2006-07-13
    • ¥ 440
    • Book
  • blog に謝罪文を掲載すること

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    謝罪と誓約 : 小心者の杖日記」に述べられている内容自体には、当事者ならぬ一読者であってみれば、当然まったく関心がないのだけど、なにかことがあって、そのことに決着をつけるために、個人的に運営している blog において「謝罪と誓約」を述べるという成り行きには、おおいに興味を覚えた。
    これまでは、当該エントリに述べられているのと同じようなことがあったとしたら、それが一般の私人間の争いならば、口約束だとか書面をとりかわすだとかあるいは裁判だとかで決着を図るだろうし、また、新聞や出版物上での名誉毀損といったことであれば、謝罪広告を打つ等して終結するということになったりもするだろう、それがいま、その個人が運営する blog で「謝罪と誓約」を述べるという発想が現れつつあるのだろうか。
    まぁ、Web に謝罪文を掲載するってのは、山形浩生さんの件(「というわけで、例の裁判の全貌未満以上」)が有名だし、その他にもありそうだから、別に目新しいものじゃあないのだろう。件の「謝罪と誓約」が blog のエントリとして書かれた経緯がよくわからないのだが、仮に、blog に件のエントリを掲載することが、当該エントリ著者の「謝罪したい」という気持ちが blogger 的に発露した結果というよりもむしろ、和解の条件なのであったとしたら、blog がますます一般化し、個人のアイデンティティを形成する大きな要素となるだろう今後(先駆的には、ネットベンチャーの求人における blog の役割を挙げられるだろうし、問題のエントリ著者の場合なら、ライターとしての営業活動にそれなりの役割を果たしているのではないかと推測される)において、ことは「小心者の杖日記」といういち blog にとどまらないんじゃないかしら、などと心配してしまう。
    仮に和解の条件として「謝罪と誓約」が書かれたのだとして、その掲載期間については、トラブルのあったどう定められているのだろうか。山形さんの件だと、判決ではひと月のあいだ謝罪文を掲載しろ、ってことになっていた。そのあたりについてなんの言及もないのが、不思議な気もする。極端な話、期間について言及がないということで、つまりは生きてる限りずっと掲載しなきゃならないという取り決めだったとして、たとえば URL が変わったりしたらどうすんの?とか混ぜっ返したくなるし。
    しかしまぁ、掲載期間なんて本質的な問題ではなくて、一度ネットに流しちゃうと、その情報を回収しようったってできやしないことが問題だろう。実際、当該エントリは、一度ポストされた後なんらかの理由により削除されていたのだが、その間も、フィードリーダで普通に全文読むことができたわけだし。また、この件は有名なブロガーの問題だから注目を集めることになったけれども、そのへんの泡沫ブロガーが和解の条件として「謝罪と誓約」を書くことになったとして、そんなの誰も読まないのだからどうでもいいといえるかどうかといえば、どうなんだろうか。
    たとえば、泡沫ブロガーの典型である僕ですら、なんかやらかしたとして、実名とともに謝罪文をこの日記に掲載することを要求されたら、やらかした内容にもよるけど、一般的にいって重過ぎる条件だと思うかもしれない。ある期間が経過した後は、この日記自体からは謝罪文が消えたとしても、数十年後、僕に孫ができたとして、その孫の婚約相手(あるいは彼/彼女が雇った探偵)が、婚約相手の身元調査の一環として僕の名前で検索して「こんなことをやらかす DQN の孫とは結婚できない!」なんてことになったらどうしよう?そんなの、おじいちゃん責任もてないよ!
    それは極端な話だとしても、ある時点で妥当だと思われていることであっても、それが検索可能な形で長期間にわたって残ってしまうことで、個人が背負える、あるいは、背負うべき責任を超えてしまうおそれがある(このあたりは東浩紀さんがよく述べてる話に関係するだろう。「