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Web 2.0 時代のプロフィールページについて考える、あるいは「けんたろたんだけど何か質問ある?」

Blog ツールの隆盛以降、それまでの個人ホームページ文化が持っていた「アバウトページ」のようなものが急速に廃れてしまい、サイト制作者についての情報が時にはウザったいと思われるほど詳細に書かれているといった光景があまり見られなくなり、「つーかこの Blog 誰が書いてんだよ?」的な無駄な秘密めかし感に頻繁にウザい思いをさせられる事態が招来されて久しいよねという話を『Blog Hacks – プロが教えるテクニック & ツール 100 選』に寄稿した FOAF 紹介記事でも述べたりしたこともあった。
先日、ありみかさとみさんが「これみよがしなプロフィールを希望」ってんで、Blog ブーム以降のブログサイトあるいは日記サイトがプロフィールページまたはそれに類するリソースでもって制作者に関する情報を提供していない場合が多いことについて述べているのに対して、真琴さんが「プロフィールを拡充しよう」ってんで、具体的には「ニュー速:結城浩だけど何か質問ある?インスパイヤ的(?)に「真琴だけど何か質問ある ?」つって募集した質問に回答するという形でプロフィールを拡充していこうってな案を提示・実践されている。

そこでこれみよがしにプロフィールを拡充しようと思いましたが何を書けば良いか分からないし、書かなくても良い所まで書きたくはない、個人WEBサイト文化研究所 〜本当に訪問者が知りたい20の質問のようなものに答えるという手もありますがそれって本当に hxxk.jp の訪問者が知りたいことなのでしょうか ?
それなら hxxk.jp の訪問者に何を知りたいかを尋ねて、それについて答えていけば効果的なプロフィールの拡充を行えるじゃないか !ということにしました。

つか、この日記にしてからが、はてなのプロフィールモジュールを用いてサイドバーになんか表示したりはしているものの、まったくやる気のない状況だし、一応 antipop.gs には FOAF をおいてあったりするのだけど、やっぱりやる気がない感じ。確かに以前はプロフィールとかちゃんと書いていた気がするけど、最近はその辺には全然気が回っていない状況だなぁとか思ったので、流れに乗じてみたり。以下、「けんたろたんだけど何か質問ある?」のコーナの取り決めなど。

どこに書けば有効な質問?
このエントリのコメント欄にて
何を訊いても良いの?
何を訊いてもいいけど、回答するかどうかはわかりません(ぉ
回答はどこに掲載されるの?
プロフィールページに随時掲載します。
いつまで質問を募集するの?
気が向かなくなるまで。

たくさんのご質問、お待ちしております。

南へ

『北』へ行くやつはいつものたれ死にだ とかつて椹木野衣は書いた(『シミュレーショニズム』河出文庫、p.160)。グレン・グールド間章…。対して、あらかじめ死んでいるハウス・ミュージックは「南へ」とどこまでも逃走しつづける、と。

その伝でいけば、いまやどこもかしこも「南」だらけだ。もはやどこへも逃げる場所などないのだ。それこそが、「希望の原理」なのではないか。

日記

なにごとをも忘れがちな貧しい頭脳の持ち主にとって、まず第一に備忘録としての役割を果たすべきものであるが、ほとんど読み返すこともなく、したがって、なにを書いたかは常に忘却の彼方にある。

日記を読み返すことがないからといって、彼が現在の状況に充足しているということはもちろんなくて、なにがあったかは忘れてしまったものの、思い出したくないことがそこに書かれているということだけが記憶されていて、思い出したくないことになる予定の物事を閉じ込めるために彼は日記を書いている。

セクシュアリティ

自らの性癖、性的嗜好について彼はあまり深く考えたことがない。美しい絵画の魅力と、道端に寝そべる猫たちの愛らしさと、優雅な女性のハッとするような身のこなしとになんの差異があるのだろうか?なんらかの差異があるとして、それがどうしたというのだろう。彼には関係のないことだ。

全てともに受容し、愛玩する。

少年たち

髪の短い少年ふたりがなにごとか楽しそうに語らいながら歩いていたのだが、そのひとりが唐突に「ここに俺の血がついている」と声を低くしていう。勝ち誇っているかのような響き。海と歩道を隔てるコンクリートの壁の地面すれすれのあたりにひっそりと数滴分の流血の跡が見える。

甘美/残酷さ

生きているということ自体が、その味わい嘗め尽くすべき瞬間と我に反る機会の総てに於いて、甘美たりうるし、残酷なほど甘いものである。此岸を「彼方」として生きる明確な意思さえあれば、人生は「甘美」な奇跡で満ち溢れる。

甘美な人生福田和也・著、ちくま学術文庫・刊 p.212 より

残酷なまでの甘美さにどれほどのひとが耐えられるのだろう。ましてや彼に於いては。
甘やかな/残酷な味に触れることなく、それどころか、積極的に貧しさについているのではないか。その自堕落を「放蕩」と勘違いすることもあって、自らの薄弱ぶりにうんざりするのだ。

飽きっぽさ

ひとつところに腰を据えることのできない移り気のはやさを彼自身はある種の美徳だと感じている。そのためになにごとを成し遂げることがなくとも、ある場所からある場所へと移動しているときの速度の感覚、世界が変容する瞬間のめまいに溺れることの退嬰的な快楽に、彼は抗うことができない。

© 2020 栗林健太郎

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