ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊(上)』
[](http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00DNMG8US/antipop-22/) [文明崩壊 上巻](http://www.amazon.co.jp/exec/obido…
- 作者: ジャレドダイアモンド
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2013/07/12
- メディア: Kindle版
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草思社から刊行されているジャレド・ダイアモンドの書籍がついにKindle化されたので、既読の『銃・病原菌・鉄』を除く3冊を購入し、読みつつあるところだ。今回は『文明崩壊』の上巻。ちなみに、日経から刊行されているダイアモンドさんの最新刊『昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来』はまだKindle化されていない。訳書の版元が変わったせいで読めないのは非常に困りますので、日経さんにおかれましては、是非よろしくお願いします。
前著『銃・病原菌・鉄』が、なぜある文明が突出して栄えることになったのかという謎を解き明かすものであったのと対照的に、この本は、なぜある文明(たち)が崩壊するに至ったのかを跡付けていくという趣向。著者は、以下の5つの軸で説明する。
ひとつの社会の崩壊が環境被害というただひとつの原因からもたらされた例を、わたしは知らない。そこには必ず、別のいくつかの要因が存在する。本書の構想を錬り始めた時点で、わたしはそういう錯綜に思いが至らず、単に環境破壊に関する本を書くものと、のんきに考えていた。やがて、想定されうるすべての崩壊について理解を深めるため、潜在的な要因を五つの枠組みにまとめてみた。そのうち四つ−環境被害、気候変動、近隣の敵対集団、友好的な取引相手−は、個々の社会によって重要性が固かったり低かったりする。五つ目−環境問題への社会の対応−は、どの社会においても重大な要素となる。
上記から抜き出すと、以下の通り。
- 環境被害
- 気候変動
- 近隣の敵対集団
- 友好的な取引相手
- 環境問題への社会の対応
題材として採られるモンタナ州、イースター島、ポリネシアの諸島、アメリカ先住民、マヤ、グリーンランドにおけるヴァイキングの末裔のそれぞれが、上記全てを満たしたがために「崩壊」に至ったわけでは必ずしもない。たとえばイースター島においては、近隣とは孤絶しており、またその文明が反映した期間に目立った気候変動があったわけでもないので、1, 4, 5のみにあてはまるということになる。例外としてはグリーンランドにおけるヴァイキングのみが、5つ全てにあてはまるとされる。
著者は『銃・病原菌・鉄』の読者なら先刻承知の、あの鮮かな手付きでもって、膨大な科学的・歴史的資料を用いながら、あたかも神の視点に立っているかのように、文明の崩壊するありさまを描いてみせる。その筆致は、ぶっちゃけ話が長過ぎるという感じでだんだん退屈してくるとはいえ、有無をいわせない説得力があり、そうなんだろうなーと納得する他ないし、その謎解きの面白さは、こういうと馬鹿っぽい感じだけど、「良質のミステリーを読んでいるかのような」という形容がふさわしい、スリリングなものだ。
ところで、著者は文明崩壊が「環境被害というただひとつの原因からもたらされた」というわけではないと書いているが、それが非常に大きな要因であることは、著者の主張の力点のある箇所だろう。僕などは不勉強にして、環境問題というのをわりと現代的な問題、つまり、森林破壊によって二酸化炭素が増えて地球温暖化が云々といったような話だと思っていたのだけれども、著者が題材にするような時代からの問題であったわけで、その頃は温暖化というよりは土壌や資源といった意味での話なわけだけれども、ともあれ環境問題が文明の将来を左右するものだという考えが単純になかったので、蒙昧を啓かれた思いがした。
とはいえ、森林資源が比較的豊かな日本においてだって、戦国時代から江戸時代といった、現在からいえばだいぶ昔の時代に、同じように土壌や資源といった視点において、行き過ぎた森林破壊を抑制し、植林を計画的に進めてきた歴史があるわけで、それを思い起こしてみると、文明にとってそうした環境資源が重要な役割を果たすことは明らかなことだろうと改めて思ったりしたのだった。
しかし、では本書に対してなんの疑念もないかといえばそういうこともなく、以下の2点において疑問がある。
- 題材に採られている場所は、そもそも環境資源が乏しい場所であり、環境破壊が文明にもたらす影響が他(たとえば日本)と比べて重大なところばかりではないか
- なるほど、著者の掲げる枠組みが過去の文明崩壊に大きな影響をもたらしたとして、現代のように交通・交流が発達した時代において、そうそう簡単に文明が崩壊するのだろうか
とも思うわけだ。巻頭のモンタナ州の話は印象深くはあるものの、でもまあ、いってもアメリカの一州なのであってみれば、それが簡単に崩壊にいたることはあり得ない。アメリカならぬ他国においてだって、政治的に安定し、国際的な交流が発達さえしていれば経済学的な比較優位や、あるいは人道的な支援をする世論といったものが働いて、おいそれと崩壊するようなことはないのではないかとも思うわけだ。
現在わたしたちが置かれている状況と十七世紀のイースター島の状況とは、いくつかの重要な点で異なっている。その差異のなかには、わたしたちの危機を強めるものもある。例えば、イースター島の環境を破壊し、ひいてはその社会を破壊するのに、石器と腕力だけを持つわずかな数千人の島民で事足りたのなら、金属製の道具と機械の動力持つ数十億もの人間が、もっと過激な自滅の道をたどらないとどうして言い切れるのだろう?
こうした著者のいいぶんは、それはそれで真摯であろうとは思うのだが、ちょっといまは「それは考え過ぎではないか」という疑念はぬぐえない。下巻の議論を楽しみにしているところだ。
