2024年3月30日
昨年の6月、数ヶ月にわたる過負荷がたたって体を壊しかけたのだが、たまたまいってみた整体で首をごりごりマッサージされて、あっという間に心が晴れやかになるということがあった。その整体師が転職するということで、今日で終わり。恩義を感じている。
妻が、仕事関連の勉強会やイベントがあり、今日は子と過ごす時間が長かった。このところ、また成長の角度が上がっているように思える。言葉もだいぶ理解が進んできた。発声できる言葉はまだ少ないが、理解はしている挙動を示すことが多い。それが増えている。
自分にとってKnown/Unknownであることと、そのことについての自己認識としてKnown/Unknownであることとで4象限を構成できる。まず重要なのは、 Unknown/Unknownな領域を、いかにKnown/Unknownに移行できるかということである。
この10年ほどの世情をかえりみるに、Unknown/Unknownなことが存在することそのものの否認が進んでいるように思える。Known/Unknownにするのではなく、もとからそうであることしか認めないとでもいうような。しかし、もちろん、むなしく終わる否認である。
坂本さんってあまり細かいことは言わないんですよ。言わないと分からないことだったら言っても分からないと思ってらした。そういうのってセンスじゃないですか……。任せて、できたものが気に入らなかったら、その人を選んだ自分のミスだって思ってらしたんじゃないですかね。
高谷史郎氏の発言「サウンド&レコーディング・マガジン」(2024年5月号)p.79
「言わないと分からないことだったら言っても分からない」というのは、まさにUnknown/Unknownの話だろう。そもそもわかりうるフレームがなければ「言っても分からない」。それを「センス」というかどうかはともかく、あたりまえのことがいわれているとは思う。
つまり、Known/UnknownあるいはKnown/Knownにしないのはだめだといったところでしかたがないということだろう。だからといって、Unknown/Unknownの存在をそもそもなかったこととするのは間違っている。しかし、そういうことが行われがちである。
もちろん、Unknown/UnknownをKnown/Unknownに近似する技法に長けているものもあろう。それはそれでひとつの技術であるし、貴重なことでもある。それが、この数年よくいわれる「言語化」という営みがなしていることだったりもするだろう。
自分は、坂本=高谷的な意味での「センス」など皆無なので、「言わないと分からないことだったら言っても分からない」ばかりである。ただ、じゃあわかり得ないことについてはもとよりないものとするようなことはしたくない。子の世話をしながら、そういうことを考えていた。