2025年5月18日
昨晩もあまりよく眠れず。朝起きて、ホテルのレストランで食事。昨日は眠過ぎて起きられなかったのだが、全然食べないのももったいない気がして、無理やり起きた。大阪城のよく見える景色のいい場所。
準備して、新大阪駅へ。新幹線のプラットフォームに大阪万博の公式グッズショップがあり、ミャクミャクのぬいぐるみも売られていたのだが、Kにさとされて買うのをやめた。というか、そもそも万博に行ってもないし。リトルKは、やっぱり車内であれこれイタズラしてKに怒られていた。
K実家へ移動。今日は三社祭の最終日。リトルKが、他の子供たちに混じって山車を引くのについて歩く。あまり何をやっているのかは分かってない様子。その後、K実家から本社神輿の渡御を眺める。この数年、毎年見る機会を得ているのだが、今年もまた壮観である。そんなことをしつつ、ビールやウィスキーを飲んでいた。
散歩にでかけて、「ゲンロン18」の東浩紀氏による論考「平和について、あるいは「考えないこと」の問題(後篇)」を読んだ。旧ユーゴについては継続的な関心があり、このところ東ローマ帝国やオスマン帝国の歴史、古代スラヴ語の歴史から振り返っている。東氏の「訂正可能性」についてももちろん興味があるのだが、単純に認知負荷によって境界をもうけたがる人間にとって、破局的な争いをできるだけ回避するための現実的な考え方ってどんなものだろうかと思って、歴史を振り返っている。
人間の本性として内と外を区別することが階層的になされるのだが、それは人間の認知能力の制約からなされることである。とすれば、その制約を広げようというのが常識的な理路になるが、一方で、それはそれで本性に反する無茶な主張、いってみれば暴力的なことにもなりうる。とはいえ、本性に開き直ってそういうものだとしてしまえばいいことでもないし、むしろ、そうした制約を逆手に取って、それでいいのだとすることで支配しようとする言説が、政治的にもビジネス的にも行われる。自分としては、そのどちらにも理解を持ちつつ、与しないという立場であり、そのほうが難しい分、誠実だろうとも思える。
夕食をいただく。リトルKを風呂に入れたり寝かしつけたりして、「べらぼう」を観る。もう追いつけないぐらい未視聴分がたまっているのだが、飛ばして再開したらいいかと思えてきた。今日はKとリトルKは泊まり。帰り道、NHKラジオの語学講座を聞きながら、ユーゴスラビア近辺の歴史についてネットであれこれ読む。
帰宅すると、『言語能力は人工知能で解明できるか』が届いていたので読み始める。生成文法論に代表される「合理主義」と大規模言語モデルに代表される「経験主義」との対比から、人間の言語能力の解明に人工知能がどれほど資することができるのかについて、各界の専門家が討論している。極めて面白い。生成文法論と昨今の大規模言語モデルとの関係については興味を持っていたことでもある。
そもそも合理/経験というフレームに疑問を覚える。人間という種が「言語能力」を持っていることと、人工知能が言語を習得っぽく見えることとは、仮に何の関係もなかったとしても両立し得る。人間がこのハードウェアを有することと、別の形で言語的にそれっぽく振る舞う機械があることとは両立し得る。その上で、本書の問題設定は人間の言語能力の解明にどれほど資するかということであるわけだが、まだ最初の方をちょっと読んだだけなので本書に即した話ではないが、解明するかどうかはともかく、役にたつことはあり得るのではないかという、特に根拠もない感想を現時点では抱いている。
OpenAIからリリースされたCodexを試す。ちょっと書いてみたいコードがあったので、ちょうどいい。タスクがどんどん非同期に実行されていき、pull requestがいくつもできる。エディタでコードの全体像を見ないまま差分だけ出されてもあまりイメージできない感じもする。それでCursorも併用して、メインの部分はそっちでやった。とりあえずやりたいことはできそうな感じはする。どこまで進めるかはまだわからない。