2026年5月1日
朝、大雨が降っている。リトルKをバスで送る。カッパを着ていて濡れているので席に座らず立たせていたのだが、今日は手すりにしっかりつかまって安定して立っていた。
武田晋一(著, 写真)『ちしきのぽけっと (25) ナメクジはカタツムリだった?』が届いた。リトルKに見せたが、「見てみたいねー」というぐらいですぐにYouTubeを戻り、あまり興味を示さなかった。
書籍の企画会議で編集者氏と話す。今日もあれこれ思うところをわーわーいうだけで企画そのものが全然進んでおらず申し訳ないのだが、だんだん輪郭は見えてきた気もする。このところ、リアルさ、本当のこと、あるいはauthenticityということがよくいわれる。AI時代にはそういうのが大切みたいな文脈は強くなっていきそう、みたいな話をしたりした。
「リアルさ」という点において、短歌には面白い考えがあるということで、こんな話を紹介してもらった。「〇〇〇〇〇〇〇おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏」という歌がある。この「〇〇〇〇〇〇〇」には何が入るでしょう?普通には夏っぽい感じのものをあれこれ想像するのだが、実際の歌は「うめぼしのたね」というフレーズなのだそうな。ありきたりなイメージに寄りかかってもいないし、それが実際にあったのでなければ創作ではあり得ない、それこそがリアルという話であった。検索してみると、穂村弘『短歌の友人』で紹介されている村木道彦氏の短歌についての話なのだそうな。とりあえず買っておいたので、あとで読んでみよう。
その問題については2025年12月30日、2025年12月31日の日記にあれこれ書いたのだが、自分としてはそのままではちょっと生煮え、というか、完全にぴったり来るものではないよなあと思っていたところだったので、短歌の例は自分になかった視点で面白い。ただ、それが自分にとってのリアルかというと、そういうわけでもない気もする。
昼に外に出た帰りに撮った写真を現像した。自分の作るこういうイメージは、自分の感じるところの「本当のこと」が多く含まれているように思う。しかし、それこそ生(なま)過ぎる。こういうリアルさ、しかしただゴロっと転がっている素材みたいなものを、どう構成していけばもうすこし開かれたものにできるかというのが、個人的な表現の課題なんだろうなあと思う。それで詩や掌編をちょっと書いみたりしているわけだが、それら自体がまた食べられない草みたいなものになってしまうのであった。








