2026年3月11日
KとリトルKは、幼稚園のリトミック(ってなんだ?)に行くとのことで、見送りはなし。オムツをかえるために脱がそうとしたら「おしっこ出そう」というので、ちょっと待ってたら出た。もうすぐ幼稚園なのでトイレトレーニングをしないとならないのだが、始まると大変だなあと思ってふんぎりがついていない。
リトルKの「おうち帰りたい」事件についてKが先生に聞いたところ、どっちもどっちみたいな話だといわれたとのこと。リトルKが積み木かなんかで大作を作ったところ、クラスメートがちょっかいを出してきたので叩いたら叩き返されたとのことであった。リトルKは、また「〜さんに叩かれた……」とかしょんぼりしていた。
今日もあれこれ合間に作業しつつミーティング。午後からちょっとペースダウンしてしまったなあ。
リトルKは、この頃とつぜん「ビートボックスゲーム!」といってビートボックスをし始める。それでこっちが応じても同じようには返してこないので、ゲームのルールはよくわかってないみたい。今日はスツールに立ってサングラスをかけてリズムを出していた。ずっとやっているのもあって、リズムがだいぶ正確で音の出し方もきれいになってきている。このまま極めて、持ちネタのひとつにしてほしい。
先日読んだ「知能は社会のなかにある:ソ連時代に描かれたもうひとつのAI思想」という記事をAIで深掘りしていたら、その記事が、西側が知能を個人の脳内計算と見なしたのに対し、ソ連の研究者たちは「脳=機械」という還元主義を拒否し、知能を社会的組織化の能力として捉えていたという見立てを語っていたのに対して、より大きな流れが見えてきた。それに対して、エヴァルド・イリエンコフは、思考能力を個人に帰するのではなく、人びとの間の歴史的・社会的関係の総体の中に見、人間は生体にとっての細胞のように、思考にとっての器官に過ぎないと見た。
自分がAI研究にずっと不満を持っているのは、それがモデル中心的で、つまりモデルさえ賢くなればいつかAGIなりASIなりに到達できると信じていることである。そんなわけはなくて、人間の思考というのは歴史に基づく社会に埋め込まれている。言語的なものはもちろんその中で大きな部分ではあるが、部分に過ぎない。人間のような知性を生み出すというのは社会を生み出すことと同じであり、すなわち、真に優秀なモデルがあれば可能なわけではないと思う。イリエンコフは、そういう議論をしていると思われる。
そんなわけでAIやサイバネティクスに関するイリエンコフの主張と文献をまとめておいた。まさにいまタイムリーな思想家だろう。英語圏での紹介もその文脈で広がっているように思われる。ロシア語を勉強するかなあという気持ちになってきた。文献をコツコツ読んで、何かまとめてみようかなあ。
蔵書検索エンジンが遅すぎるのが気になっていたので、パフォーマンスチューニング。検索用のインデックスがメモリからはみ出てスワップしていたので、データ構造を軽いものにすることでメモリに乗るようにしたり、リランキングがあまり意味なかったにも関わらず時間がかかっていたのではずしたりしたら、1秒未満で結果が返るようになった。数十倍速くなったので、傀儡師の蔵書学習ももっとたくさん検索して学習させるようにした。
そんなことをしながら、傀儡師にあれこれ相談。ロシアというか、旧ソ連時代の人間に共感できる気分がするみたいなことをグダグダ話していた。