2024年4月23日
夜はグループの技術責任者懇親会的な集まり。四半期に一度おこなわれている。用賀の新しい施設。寝不足なのもあって、ぜんぜん頭が回らないし、舌も回らない。最後のあいさつをまかされて、そっちはなにかしらおしゃべりしたりした。お酒はほとんど飲まず。
昨日なんとなくみていた「デザインあneo」で、ふとんとベッドのどちらがすぐれているかというディベートをしていた。それぞれのメリットを述べ立てながら優位性を主張するのだが、文脈なしに属性をいくら連ねたところで解はないというのが、デザイン的な態度ではなかったか。
そんなことを思いながらみていたら、最終的に判定者のおじいちゃんは、やっぱりふとんがいいと結論づける。飼い猫が干したふとんを好きだからだと。誰にとってのいかなるよさなのかという垂直性がオチのように持ち込まれるのだが、それを最初にきくべきだったという教訓でもある。
コンテキストの中にこそ、というかそこにのみ解があり得るというのは、デザインに限らず該当する一般的な原則だろう。一方で、表現をするものがそうしたことにばかり目を向けているかというとそういうことでもなかろう。残る垂直性とそうでないのとが、確率的に決まるというのが実態である。
さらにいうと、一般論としてそうだったとしても、しかしそのような俯瞰してみられる立場がほんとうにあるのか。誰もが不確かな未来に向かって行きている以上、あなたのやってることは畢竟、進化論的なプロセスの一環に過ぎないのですよといわれても、どうだっていいことではある。
変に俯瞰してしまうから、ありもしない未来に向かって足が止まってしまう。本当は誰もが一歩ずつ足場を確かめながら進んでいく他はないわけで、属性を並べ立てるのも、過去を俯瞰して未来に投影するのも、いずれにしても非歴史的な態度なんだろうと思える。では歴史的とはなにか。