2024年7月30日

出張や体調不良をはさんでの久々の出社。あれこれ話が早くてよい。どんどんせっかちになって堪え性がなくなるのをなんとかしたい気もするが、かといってそれがただなくなるだけだと進みが遅くなるだけである。質を高めつつも、最速でいきたい。

家族や健康が大事みたいなことはよくいわれるが、そんなことはあたりまえである。カオスに区切りをつけるためにそういうならいいけど、やるべきことをできてないいいわけにするのは、自分では回避したい。自覚するのも難しかろう。ならば、いわなければよい。

そういう「終極の語彙=terminal vocaburary」を用いるのは、思考停止と変わらないことになりがちである。人間は長期的には死ぬのだからあらゆる問題はどうでもいいみたいなことだっていえるが、なんの意味もない。反証不能なオカルトと同じである。

ある種の制約としてそうした終極を置いたうえで、ではその中でしか生きられない中でどこまでやれるのか、そういうことを考えるのは良いことだろうと思われる。ただまあ、これまでそういうことがかえりみられなかった反動としてそういうのはあるだろう。

なにかしら終極を設定して安心するというのは、ローティ的にいえば哲学においてだってそうなのだから、思考一般の傾向ではある。一方で、終極すら底が抜けてしまうという昨今の状況もあり、適切な終極を設定することのだいじさというのもあろうとは思う。