2026年11月1日
リトルKと散歩する。酒屋で日本酒を買った後、リトルKが「おもしろ公園に行きたい」という。昨日のハロウィンの子供たちで賑わってたのが楽しかったようで、その公園を「おもしろ公園」と呼ぶ。昨日よりは少なかったが、それでもたくさんの子供たちがいた。ひとしきり遊んだ後、帰宅して寝かしつけ。ニトリの棚の上にベッドを作ってそこで寝るといっていたのだが、何をしていたのか顔面から落ちて鼻血。少し鼻梁が腫れていたが骨には異常なさそうだし本人も痛みはないというので、今晩は様子見する。
昨晩注文してあった平凡社ライブラリー版のグスタフ・ルネ・ホッケ(種村季弘・訳)『文学におけるマニエリスム 言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』が届いたのでさっそく読み始める。高山宏氏が激賞していてずっと気になっていつつ、30年越しでようやく読むに至った。
ダニール・トリフォノフによる中南米の楽曲を演奏したアルバムMi Historia Americana: Surを聴く。特に最初のほうのガブリエラ・レナ・フランクが素晴らしい。音がだんだんばらけていく繊細な演奏も良い。現代のクラシックにこんな面白いものがあるとは、楽しみが尽きない。南米的な哀愁のある要素は意外に少なく、緻密に構成された大きさを感じさせる曲が多くて楽しめる。
ETV特集の「変貌の超大国アメリカ 建国250年 リベラリズムの憂鬱」を観る。パトリック・デニーン氏は、リベラリズムの価値観が浸透した結果、社会やコミュニティ、伝統的価値観に基づく紐帯が途切れて、かえって国家的介入が効率的に行われるようになり、かえってリベラリズムが失敗することとなったという。それだけ聞けば、そういう面はあるように思える。
ただ、それは本当にリベラリズムが原因なんだろうか?デニーン氏の論敵としてフランシス・フクヤマ氏が登場するのは面白い対照である。自由市場とアイデンティティポリティクスの行き過ぎというのはあるにしても、多様性の重視に原因を求めるのは違うんじゃないかと思う。フクヤマ氏は、リベラルな原則に基づく国家的目的の再構築が必要であるというオールドリベラリストらしい対処法を述べる。基本的には自分もその線で考える。
さらにNHKスペシャルの「変貌の超大国アメリカ 第1集 国家改造 影の設計者たち」。ヤバすぎる。