2024年3月17日
大学院の講義を受講するため、品川へ。最後の時間は、期末テストが行われた。だいぶ苦戦したが、単位取れてるといいなあ。この際、もはやスコアは関係ない。とにかくこの単位が取れさえすれば、あとは博論を残すのみである。そちらもそろそろ始めないと。
「東京工業大学・上田紀行教授の最終講義をダイジェストでお届けしてみる。|東スポnote」という記事が流れてきたので、読んでみた。その中で、鈴木大拙『東洋的な見方』を引いたうえで、以下のように敷衍している。
松は松として生きる、竹は竹として生きる、あなたの中には松がある、その松を自由自在にマストであるということがあなたの自由なんだ。
世の中の自由の考え方は違います。松として生きている人に「あなたは竹にもなれへんな、梅にもなれへんな、山にもなれないし、河にもなれないなぁ」で、こういうことができないじゃないかと指摘して、「お前は不自由な奴だなぁ、松にしかなれなくて」というのが今の自由という考え方かもしれません。
東京工業大学・上田紀行教授の最終講義をダイジェストでお届けしてみる。|東スポnote
こういう話はよくいわれるが(「置かれた場所で咲け」みたいな)、まったく違うと思う。
鈴木大拙のような人はともかく、それ以外のほとんど(もちろん自分も)は、「松」でも「竹」でもなく、ただアモルフな動物的生を生きるだけである。だから、「松」であることの必然性を自在に生きる、みたいな話は違っていて、なんだかわからないものとして、自然に生きるだけである。
しょっちゅうDISっているが、現代の先鋭的な思考家すらも「AIが発展しても人間に残されたものがある」みたいな、極めて凡庸な発想に陥ってしまうのだが、それは「松」ではないかもしれないけど「竹」ではあるかも?みたいな話に過ぎない。実際は、どちらでもないのである。
一方で、しかし人間にはAIには実現できないなにがしかがあるように見えるという実感があるのもまた自然なことではある。まだ解明されていない、そして将来にわたってされることもなかろうことが、人間にではなく社会にはあり、それを人間の本質であると短絡しているからである。
いまこそ、社会をみなければならない。情報科学にたとえていえば、システムを考えるべきなのに単体の端末のみについて考えるから、AIにはない人間の本質なんて話になる。端末にそんなものはない。本質はシステムを構成するネットワークに宿っているのだから。
そういう意味でも、情報科学の最先端は、AI関連についてはいうまでもなく、そこからさらに進んで極めて面白い展望を開いている。たとえば谷口忠大氏が10年以上前から提唱している「記号創発ロボティクス」が開く、言語の社会的創発に関する構成論的探求がそれである。
https://twitter.com/tanichu/status/1768431204196569470
僕はなにもこの話からそういう考え方を始めたのではなく、リチャード・ローティやデリダ=東など、人文学によって開かれた視座に影響を受けて考えてきた。そんなわけで、あらためて社会に対するこうした視座をもってこれからの思考を進めていきたいと思っている。