2024年4月17日
昨晩は、サイードの『晩年のスタイル』を読了。「晩年」という言葉で想起される「円熟」のようなこととはまるで異なる、世間の流れに反した流儀をますます徹底していくみたいなことは、芸術家ならぬ普通の人々にとっては単に「偏屈」というべきことではないかもと思う。
だからよくないということではもちろんなくて、新しいことにだらだらと流されるみたいなのよりは良いこともあろうと思う。自分はどうだろうか。そうはなれないだろうとも思うし、もしそうなったらなったで「晩年のスタイル」を標榜して恬淡としてればよい。
まあでもわりとこの数年は周囲にどう思われるかみたいなことが気にならなくなってきて、自分がその時々に興味をひかれたことにとりくみ、拙かろうがなんだろうが、関係なく発表している。半分だけ「晩年」に足を踏み入れている。技巧をいちじるしく欠いてはいるが。
サイードの論旨からするとそれは「晩年のスタイル」と呼ばれるべき事態はないことになるのだが(サイードは高い技巧を前提としてるから)、まあ、彼のいうとおりにしなければならないこともないわけだし、もう自分のスタイルをそう呼べばいいと思っている。
それはそうと、その本でサイードは、昨今の知識人は音楽について分析的に語るスキルもないし、種々の様式を聴き分ける耳も持たないみたいな嫌味を書いていて、知識人ならぬ自分などはなおのこと何もできないわけで、そういうことにはむしろへこまされる気持ちになる。
若年においては音楽に対してあれこれと聴く以上のことをしようとは思えなかったが、ここにきてなぜか演奏したり作ったりすることに取り組むようになった。いかに拙いことであろうとも、それはそれで続けていって、自分なりに満足できるようにはなりたいものである。